日本は、いつ「国」になったのでしょうか。
天皇の存在でしょうか。
律令でしょうか。
それとも軍事力でしょうか。
しかし、7世紀の木簡を読んでいくと、
まったく別の答えが浮かび上がってきます。
日本はまず「物流国家」になった。
税はお金ではなく物資で集められ、
地方の生産物は決められた単位で中央へ送られ、
役所はその荷物を管理する巨大な物流拠点でした。
そこには、
「国をどう運営するか」
という設計思想が、すでに完成した形で刻まれています。
今回は、奈良文化財研究所の木簡データベースをもとに、
7世紀の日本がどのようにして
国家として機能する物流システムを築いていたのかを、
一つひとつ読み解いていきます。
木簡は7世紀の「配送ラベル」だった
「木簡(もっかん)」と聞くと、多くの人は「古代のメモ」や「役所の記録札」を思い浮かべるかもしれません。
しかし、奈良文化財研究所の木簡データベースを実際に読んでいくと、まったく違う姿が見えてきます。
木簡とは、7世紀の日本で使われていた国家物流の配送ラベルだったのです。
たとえば、次の木簡があります。
丁丑年十二月次米
三野国/加尓評 久々利 五十戸人
ここには、現代の宅配伝票とほとんど同じ情報がそろっています。
- 年:丁丑年
- 品目:次米
- 産地:三野国 加尓評 久々利
- (徴収単位の情報も併記されています)
もう一枚、非常に象徴的な木簡があります。
調俵
わずか二文字ですが、意味はとても明快です。
これは、「税として運ばれる貨物である」という表示札なのです。
7世紀の日本では、各地の生産物が一定のルールに従って集められ、
俵に詰められ、木簡というラベルを付けられて中央へと運ばれていました。
この段階で日本はすでに、
生産 → 徴収 → 管理 → 輸送 → 集積
という、国家ロジスティクスの基本構造を完成させていたのです。
税とは「制度」ではなく「運ばれる現物」だった
7世紀の日本で「税」とは、私たちが思い浮かべるような数字や貨幣の制度ではありませんでした。
木簡を一枚ずつ読んでいくと、そこに見えてくるのは、国家を動かしていた巨大な物流の実態です。
木簡に頻出する語のひとつが「調」です。
後の律令制では、「調」は布・糸・絹などを都へ納める税目として整理されますが、
7世紀の木簡の段階では、「調」は国家が集め、運び、管理すべき公的物資の総称として使われていることがわかります。
そこに現れるのが「俵」という語です。
調は帳簿上の数字ではなく、俵詰めの貨物として実在していました。
木簡は、それに結びつけられた、いわば実務の荷札だったのです。
さらに、この物流の性格を決定的に示すのが「次米」です。
さきほども挙げた木簡ですが、
丁丑年十二月次米 三野国/加尓評 久々利 五十戸人
「次米」は、新嘗祭や大嘗祭に関わって、
国家祭祀のための特別な新穀であると考えられています。
国家最大の宗教儀礼でさえ、祈りや理念だけでは成立しません。
精密な物流によって、はじめて成り立っていたのです。
指定された地域で新穀が収穫され、
決められた手順で集められ、
木簡を付され、
期日までに都へと運ばれる。
税制、行政、宗教、経済はすべて、
「物の移動」という一本のシステムに統合されていました。
国家とはまず、
巨大な物流装置として設計された存在だったのです。
五十戸単位で回る、日本の供給ネットワーク
では、この巨大な物流装置は、
いったいどのような単位で回っていたのでしょうか。
その心臓部にあったのが、「五十戸」という設計単位です。
木簡データベースを確認すると、「五十戸」という語は複数の木簡に現れ、
「調」「進」「人」などの語と結びついて使われています。
たとえば、次のような木簡があります。
五十戸調
これは、五十戸という行政単位で集められた調が、
その単位のまま輸送・管理されていたことを示しています。
また、
三野国…久々利 五十戸人
という記載からは、五十戸が物資だけでなく、
人員や行政管理の基本単位でもあったことが読み取れます。
地方で生産された物資は、
五十戸単位で束ねられ、
評・国という行政区分を通じて集約され、
最終的に都へと送られていきました。
7世紀の日本国家は、
流通の構造としてすでに完成していたのです。
なぜ日本は7世紀に国家として機能できたのか
ここまで見てきたように、7世紀の木簡からは、
日本がすでに高度な物流システムを備えていたことが読み取れます。
各地の生産物は、
一定の単位で集められ、
品目・産地・時期が明記され、
中央に集積され、
国家の運営や宗教儀礼、行政活動に配分されていました。
これは偶然の寄せ集めではありません。
継続的に国家が機能するための、具体的な設計です。
国家が安定して運営されるためには、
- 生産が把握されていること
- 物資が計画的に集められること
- 中央に供給が集中すること
- 必要な場所へ再配分できること
といった条件が欠かせません。
7世紀の日本は、この条件をすでに満たしていました。
もちろん、国家形成の要因は物流だけではありません。
政治制度、宗教、外交、軍事など、多くの要素が重なり合っています。
しかし、木簡が示す物流の完成度を見ると、
「国家として機能する土台」が、かなり早い段階で整えられていた
と考えることは十分に可能でしょう。
少なくとも、7世紀の日本は、
「物をどう集め、どう運び、どう配るか」という現実的な問題を、
すでに国家レベルで解決していたのです。
おわりに
今回、奈良文化財研究所の木簡データベースを手がかりに、
7世紀の日本の物流の姿をたどってきました。
木簡は単なる記録札ではなく、
国家の中を流れる物資を管理する配送ラベルでした。
税は数字ではなく、実際に運ばれる現物でした。
そして国家は、五十戸という単位を基礎に、
生産・徴収・輸送・配分の仕組みを組み上げていました。
これらを一つひとつ見ていくと、
7世紀の日本がすでに、
「国として機能するための現実的な条件」を
かなり高い水準で整えていたことがわかります。
国家の成り立ちは、法律や制度、人物や事件だけでは見えてきません。
その下で静かに動いていた、
物の流れに目を向けると、
まったく違う日本の姿が立ち上がってきます。
木簡は、当時の人びとが日々の仕事の中で残した、
ごく実務的な道具です。
だからこそそこには、
理想や建前ではなく、
国家が本当にどう動いていたのかが刻まれています。
日本という国が、どんな仕組みの上に形づくられてきたのか。
木簡は、その設計図の一端を、
今も静かに伝えてくれているのかもしれません。
参考資料
奈良文化財研究所:木簡庫









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