はじめに
平安時代の百科事典『和名類聚抄(和名抄)』と、朝廷が官社として認めた全国の神社データベース『延喜式式内社』。本稿ではこの二つを、信仰や古文書としてではなく「国家の資源管理ログ」として読み直し、平安日本の物流と産業構造の輪郭を追います。
この記事の要点を一言で言えば、
平安時代の日本は、朱と水銀という戦略資源を、神社を使って管理し、全国物流網で都に集約する「産業国家」だったということです。
産地 → 精錬 → 集約 → 検品 → 都へ輸送
この流れを、『和名類聚抄』と『延喜式』を手がかりに追っていきます。
地名、郡名、神社名、そして神社領(神戸)――いっけん無関係に見える断片が、ある資源を中心に不思議なほど噛み合っていく。ログをつなぎ直すと、1000年前の国家が、資源の産地を把握し、守り、運び、都に集約するまでの仕組みが浮かび上がってきます。
和名抄と式内社という二つのログが解き明かす、知られざる平安日本のロジスティクス・ミステリー。ひとつずつ紐解いていきましょう。
地名と技術が語る『朱のネットワーク』
この章では、『和名類聚抄』の地名・物資・道具の記述を手がかりに、平安国家が「朱」と「水銀」を中核資源として把握し、管理し、流通させていた実態を読み解いていきます。
『和名抄』の国郡部を確認すると、「丹」や「丹生」の名をもつ郡・郷が、列島各地に点在しています。しかもそれらは偶然ではなく、水系・街道・港湾といった物流の要衝とほぼ重なっています。
以下、その配置を具体的に見ていきます。
「丹」という地名の全国展開
【越前国 丹生郡】
日本海交易の拠点であり、朱砂の主要供給源でした。ここで精錬された朱は、大陸外交や北陸の宗教都市の彩色を支える戦略物資だったと考えられます。
【伊勢国 飯高郡 丹生郷】
伊勢神宮の背後地に位置し、郡内には神社領(神戸)と駅家が併設されていました。社殿彩色や神宝製作のための朱を安定供給する国家管理拠点だったと見られます。
【若狭国 遠敷郡 丹生郷】
若狭の豊富な水系は、精錬に必要な冷却と水運の双方を支え、日本海航路に直結していました。
【近江国 坂田郡 上丹郷】
琵琶湖水運と陸路が交差する交通の要衝です。ここを本拠とした息長氏は、古代屈指の技術氏族として知られています。
【土佐国 安芸郡 丹生郷】
太平洋航路の出口に位置し、海部系の海民ネットワークによって朱は紀伊水道を越え、大和へと運ばれていました。
【豊後国 海部郡 丹生郷】
和名抄で海部郡は豊後国の要衝として記されています。海部郡に鎮座している早吸日女神社には、海底で「神剣」を抱えた大蛸の伝承が残ります。もしこの「剣」が、当時の最先端素材だった水銀や金属資源を象徴していたとしたら―神話は、資源と物流の現場を暗号化した記憶だったのかもしれません。実際、8世紀の『豊後国風土記』には、この海部郡で「山の沙を採って朱砂(水銀の原料)とした」という採掘の記録が明確に残っています。
【上野国 甘楽郡 丹生郷】
東国最前線に置かれた資源管理拠点です。朱と精錬用燃料(炭)の供給は、東国における国家権威の象徴を支えていました。
つまり、『丹/丹生』という地名は、朱砂(水銀)に関わる拠点に付された“管理ラベル”だった可能性を示唆しています。
技術ログとしての『和名抄』
次に、『和名抄』がこの資源をどのように記録しているかを見ていきます。
巻13「図絵具」には丹砂(朱砂)が「丹(に)」として顔料原料に分類され、
巻11「宝貨部」では水銀が「汞(みずかね)」と記され、
さらに「朱砂を焼いて水銀を得る(焼朱砂為水銀)」という精錬工程まで明示されています。
加えて、
・釡(加奈倍)という精錬容器
・鎮粉(焼成時の煤)
・汞粉(釡に付着した水銀灰)
・鞴(ふいご)・蹈鞴(たたら)による送風装置
といった道具・副産物・温度管理技術まで網羅されています。
技術と神事が結びつく理由
水銀は「宝貨」に分類され、金の鍍金という国家事業に不可欠でした。
朱は「図絵具」に分類され、社殿や仏塔を彩る宗教権威の象徴でした。
だからこそ、これらの資源は神社という聖域で管理され、技術者集団と祭司が共同でその流通と秘匿を担っていたと考えられます。
地名に刻まれた「丹」と、神社領(神戸)の分布は、平安国家の資源システムがすでに完成された産業ネットワークだったことを物語っています。
紀伊水門で交差する物流ゲートウェイ
この章では、朱と水銀が各地の産地から集められ、最終的に都へと運ばれていく中継拠点としての紀伊の役割を見ていきます。
とりわけ紀伊国名草郡一帯は、平安国家の物流システムにおいて、海と陸を結ぶ最大級のハブとして機能していました。
『和名抄』巻9を確認すると、紀伊国では海部郡と、その北に接する名草郡に、強力な海事ネットワークを持つ神社の領地が集中しています。
名草郡には大規模な神社領である日前神戸(ひのくまのかんべ)が置かれ、その中心には日前神宮があります。さらにこの地は、日前神宮と対をなす国懸神宮を擁する、紀伊国の海事・国家祭祀の中枢でもありました。
そして、この一帯を本拠としていたのが、古代最強の海人族とも言われる紀氏です。
資源の源流が集まる場所
まず、紀伊国が担った役割を整理しましょう。
『和名抄』に記される紀伊国伊都郡(高野山麓)の「神戸」は、丹生都比売神社の祭祀と管理を支える神社領でした。伊都郡は、内陸にありながら丹砂の重要な供給地であり、「山の朱」の産地でした。
一方、太平洋航路を通じて、豊後国や土佐国からも朱と水銀が運び込まれていました。こちらは「海の朱」とも言える資源群です。
伊都郡から紀の川を下ってきた「山の朱」と、南海道の海上ネットワークで集められた「海の朱」。
この二系統の資源が合流する地点こそが、名草郡でした。
最終検品拠点としての日前・国懸神宮
名草郡に集まった朱は、ここで最終的な管理と選別を受けていたと考えられます。
日前神宮・国懸神宮は、単なる信仰施設ではありません。各地で採掘・精錬された資源を、国家規格の「宝貨(水銀)」や「図絵具(丹砂)」として整え直し、再び管理タグを付ける場所―いわば最終検品・品質管理センターでした。
ここで基準を満たした資源のみが、次の物流ルートへと送られていきます。
都へ向かう最終ルート
名草郡で統合された朱と水銀は、紀の川をさかのぼり、吉野を経て、畿内(都)へと至ります。
この「紀伊路」は、平安国家における資源の大動脈でした。
こうして見ていくと、『和名抄』に記された各地の神戸や丹生地名は、単なる宗教施設や地名ではなく、国家物流を支える管理ポイントだったことがはっきりします。
まとめ
朱と水銀は、
産地 → 精錬 → 集約 → 検品 → 都へ搬送
という明確な工程のもとで運用されていました。
その要となったのが、紀伊国名草郡という巨大な物流ゲートウェイだったのです。
おわりに
私たちは『和名類聚抄』や『延喜式』を、信仰や儀礼の記録として読みがちです。
しかしそれらを「ログ」として読み解いていくと、そこには、平安国家がいかに緻密な資源管理と物流システムを構築していたかという、もう一つの歴史の姿が浮かび上がってきます。
朱砂という鉱物は、やがて水銀へと精錬され、金を輝かせ、仏像や社殿を彩り、国家と宗教の権威を支えました。
その背後には、次のような仕組みがありました。
- 産地を神域として囲い込み、無断の採掘や流出を防ぐこと
- 海部や息長氏といった専門集団を統率すること
- 日前・国懸神宮のような拠点で最終検品を行うこと
神話に語られる「神剣」や「大蛸」は、決して空想の産物ではなく、当時の最先端素材であった水銀をめぐる、現場の記憶が物語へと姿を変えたものだったのかもしれません。
信仰と技術、神社と工房、祈りと炉―それらは分断されることなく、一つの国家システムの中で結びついていました。
私たちが何気なく歩いている土地の名前や、古い神社の由緒の中には、まだ読み解かれていない「1000年前の管理ログ」が静かに眠っています。
それらに耳を澄ませるとき、平安時代は遠い過去ではなく、今の社会と地続きの「設計思想」として、私たちの足元に立ち上がってくるのではないでしょうか。









コメント