当ブログで多く取り上げてきた、「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」。神社の中に寺があったり、神様の前でお経を読んだり……。しかし、その聖域の頂点にある伊勢神宮だけは、仏教を厳しく遠ざける「神仏隔離(しんぶつかくり)」の伝統を頑なに守ってきた場所として知られています。
ところが、論文等を見てみると、伊勢神宮の歴史は決して仏教と距離を置くだけではありませんでした。そこには、建前としての「隔離」を守りつつ、内実として「習合」を深めていった、信仰の二重構造があったのです。
この記事では、伊勢神宮と仏教が歩んだ1500年の歩みを紐解いてみたいと思います。
始まりは「柱」の信仰:仏教を「日本の神」として受け入れた古代
仏教が伝来した当初、古代の日本人は仏教を「全く未知の異国の宗教」としてではなく、自分たちが元々持っていた「神祗信仰(しんぎしんこう)」の枠組みの中で理解しようとしました。その象徴が「柱(はしら)」です。
古墳時代から、柱は神が宿る「依代(よりしろ)」として神聖視されていました。仏教を受け入れる際、日本人は寺院の塔の中心にある「心柱(しんばしら)」に、在来の神が降臨する聖なる柱のイメージを重ね合わせました。
また、欽明天皇が蘇我稲目に仏像を託した「仏教公伝」の形式も、当時の王権が特定の氏族に神の祭祀を委ねる「委託祭祀(いたくさいし)」の形を借りたものでした。つまり、最初は仏教を「外来の神(蕃神)」として、在来の祭祀の中に混淆(こんこう)させることから日本の仏教受容は始まりました。
神仏習合と神仏隔離(分離)が併存するという日本特有のシンクレティズム現象は、古代国家が仏教を受容してから神祗祭祀を形成させたことで生まれた。仏教公伝の記事に欽明天皇が仏像を蘇我稲目に託したとあることは、古墳時代に普遍的な委託祭祀の方式に則ったものである。また古墳で行なわれていた「柱」祭祀に、神聖(祭祀的)な面と服属儀礼的な面とがあり、仏教の受容に際し、神聖(祭祀的)な面は塔の心柱に、服属儀礼的な面は須弥山を建てる儀に投影された。
三橋正「仏教受容と神祗信仰の形成―神仏習合の源流―」
神仏習合(神仏混淆)の歴史に関する全体的な話は、以下の記事をご覧ください。
伊勢神宮の神仏隔離:拒絶と忌詞(いみことば)
平安時代以降、伊勢神宮は国家の最高神を祀る場として、仏教を「汚れ」として遠ざける原則を確立します。その象徴が、仏教用語を神宮独自の言葉に言い換える「忌詞(いみことば)」です。
仏を「中子」、寺を「瓦葺」と呼び替えるこのルールは、神聖な祭祀の場から仏教色を完全に排除しようとする強い意志の表れでした。
延暦二十三年(八〇四)、神宮より神祗官に提出された「皇太神宮儀式帳」によると、倭姫命(第十一代垂仁天皇皇女)が定めた忌詞として、「仏を中子と云ひ、経を志目加弥と云ひ、塔を阿良々支と云ひ、法師を髪長と云ひ、優婆塞を角波須と云ひ、寺を瓦葺と云ひ、斎食を片食と云ふ」等が挙げられている。平安時代以来、神宮では祭祀・儀礼の場における神仏分離が原則であったことを、如実に示している。
多田實道「室町時代の神宮と仏教」
仏教側からの信仰の深まり:高僧たちの参宮と「神明法楽」の流行
しかし鎌倉時代になると、拒絶の雰囲気に変化が生じはじめます。仏教側からの寄り添いです。東大寺再建に尽力した重源や、西大寺の叡尊といった高僧たちが、国家の安寧を願って熱烈に伊勢を参宮するようになったのです。彼らは神前で読経を行う「神明法楽(しんめいほうらく)」を捧げました。
当時の僧侶たちは、たとえ宮殿の近くまで行くことを拒まれても、大樹の下から神宮を遙拝し、深い信仰を寄せ続けました。
鎌倉時代の禅僧虎関師錬が、皇大神宮(内宮)に参詣した際のことである。漸く正宮まで進前したところ、一祠官に「此神不愛沙門、莫近也」と呼び止められ、大樹下での遙拝を余儀なくされたという。かくも仏教を峻拒した神宮(所謂伊勢神宮)を、当時の僧侶達は、篤く信仰した。その濫觴は、文治二年(一一八六)二月、東大寺大仏殿再建を祈願した俊乗房重源の参宮と、その二ヶ月後に勤行された、重源を願主とする神明法楽に求められる。
多田實道「戦国時代の神宮と仏教」
室町時代の思想転換:仏教行事も「まつり」である
室町時代、将軍・足利義持が内宮の中に不断神明法楽所として「内宮建国寺(けんこくじ)」を整備させたことで、神仏の関係は新たな段階に入ります。驚くべきことに、この仏教施設の管理を任されたのは、神宮を統括する最高位の神職たちでした。
本来、仏教を避けるべき伊勢神宮の神職たちが、なぜ寺を管理できたのでしょうか。彼らは「法楽は仏式の『まつり』であり、神を尊ぶ行為である」という新しい理論を構築し、神仏分離の原則との矛盾を解消させたのです。
内宮側としては、それを正当化する理論を構築しなければならない。そこで確立されたのが、神明法楽を仏式の「まつり」とする認識ではなかったか。内宮は、法楽を神宮祭祀の一環として位置付けることで、神仏分離の原則との矛盾を止揚しようとしたわけである。これは、神仏習合への転換と言えるのではないか。
多田實道「室町時代の神宮と仏教」
戦国時代:確立された「神本仏迹説」
16世紀(戦国時代)になると、この融合はさらに進み、内宮において「神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ)」という教義が公式な規範として確立されます。これは、「表向きは仏教を隠すが、裏では天照大御神の化身である仏や菩薩を敬うべきである」という、驚くべき二重基準の教えでした。
また、この時期には、神職が呪術に仏教の呪文を用いたり、僧侶が経歴を偽って神宮の禰宜(神職)に就任したりするなど、神仏の境界線は事実上崩壊していました。
内宮一禰宜が、真言密教で唱える呪文を、この神灰請文に書き添えよ、と明言しているのである。室町時代以前の神宮関係史料において、神仏習合という点でここまで露骨なものは、管見の限り見出すことができない。
多田實道「戦国時代の神宮と仏教」
……既に指摘した通り、表向きには仏教色を隠さなければならないものの、裏では、天照大御神の化身である仏や菩薩を敬わなければならないとする神本仏迹説が確立したのは十六世紀のことであった。
多田實道「戦国時代の神宮と仏教」
近代:神仏分離と「神葬祭」の誕生
1500年近く続いたこの複雑な共存関係は、明治維新の「神仏分離令」によって終焉を迎えます。伊勢では古来、死穢(しえ)を避けるために、葬儀は寺院に任せるか、「速懸(はやがけ)」という特殊な葬法が取られていました。しかし明治以降、仏教色を徹底的に排した「神葬祭(しんそうさい)」が定義され、現在の姿へとつながっていきます。
慶応四年三月二十八日、神仏分離令が発令され(太政官第百九十六号)、同年閏四月十九日神職の家は神葬祭へ転換することとなり(諸国神職宛神祗事務局第三百二十号)、同年六月二十四日には、まず『祖祭略記』……が著され、神宮祠官の祖先祭祀から仏教色が排され、さらに、明治元年十月「神葬祭発令」……に基づき、同年十月から十二月にかけ、神葬祭への改め願が左記の各村から度会御府や御会合所に出されるに至る
本澤雅史「伊勢の神葬祭から見る神仏関係」
まとめ
伊勢神宮の歴史から学べる最も興味深い点は、神と仏が単に混ざり合ったのではないということです。
公的な「祭」の場では伝統的な隔離を重んじ、個人の救済や国家の危機を救う場では仏教の教義を取り入れる。このような二重構造が、神道を保ちながら、外来思想である仏教を柔軟に吸収し、1500年もの長い間共存をできた理由の一つではないでしょうか。












コメント