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明治新政府による修験道の廃止 -明治期は神仏習合が大変動する時代だった-

明治維新以降、新政府は神道国教化の政策を掲げた。その一環である神仏判然令により、神と仏をはっきりと分けるよう政府は命じている。神仏習合の一例である修験道も、この影響を激しく受けており、様々な対応を迫られたようである。

本記事では、修験道が神仏判然令で受けた影響やその対応について調べたことを書いた。
別の記事でも、神仏習合や神仏判然令関連を書いているので、興味があればあわせて読んでみてほしい。

目次

修験道とは

そもそも修験道とは、どういった信仰なのだろうか。簡単に定義を書いてみると以下の宗教形態のようである。

修験道とは・・・
日本古来の山岳信仰が、仏教・道教・シャーマニズム・神道と習合してできた、一つの宗教体系である。修験道は別名で修験宗とも呼ばれる。また修験道の実践する者は修験者(別名:山伏)と呼ばれる。

修験道のはじまりは諸説有るため、詳細は定かではない。少なくとも平安時代末期には体系的な成立を確認できるようである。

日本古来の山岳信仰では、集落近くの山嶺を命の源、死者の魂の依りどころとする信仰があった。この山岳信仰が上記外来の宗教や神道などの影響を受け、山籠りの修行を実践し、悟りを得るという修験道の形成へとつながったとされる。

代表的な修験道

平安時代中期から末期にかけて成立したとされる代表的な修験道は、大峰山の吉野・熊野を拠点として修業する信仰集団があげられる。大峰山を拠点とする修験道は大きく以下の二派がある。

  • 本山派

大峯山の熊野側を拠点とし、天台宗の聖護院(京都市左京区)を本山(本寺)とするのが本山派である。

  • 当山派

大峯山の吉野を拠点とし、真言宗の醍醐三宝寺(京都市伏見区)を本寺とするのが当山派である。

その他の修験道

鎌倉時代末期になると、各地で修験道場が開かれた。岩木山、出羽三山、日光二荒山、筑波山、秩父三峯山、富士山、御嶽山、立山、石動山、白山、石鎚山、英彦山などに独自の信仰が生まれた。

慶長18年(1613年)徳川家康が修験法度を制定したことにより、修験道は正式に一つの宗教として認められることとなった。なお、この修験法度の定めるところにより、すべての修験道は本山派および当山派いずれかに属すことを義務付けられ、この統制のもとに、峰入りなどの宗教活動が認められた。

ただ、本山派か当山派いずれにも属さない修験者も多くいた。彼らは民間宗教者として影で活躍したようだ。

修験法度
修験道の事、先規より有り来りのごとく、諸国の山伏、筋目に任せて人峯いたすべし。当山・本山各別の儀に候条、諸役等、互に混乱あるべからず。自今以後、堅くこの旨を守り、諍論なきよう下知あるべきものなり。

修験道廃止の命令:背景と影響

江戸時代が終わり、明治維新により天皇を中心とする新政府が誕生した。
冒頭にも述べたように、神道国教化を目的とした政策の一つとして明治政府は、神仏判然令を出した。

神仏判然令を政府が急速に進めようとした背景は、明治初期の宗教政策の実権を掌握していたのは誰かを考えればわかるかもしれない。この当時の宗教政策に関する実権を握っていたのは、平田篤胤派の学者(神道国教化を掲げる)と神祇官たち(祭政一致政策を推進)であった。

明治元年~明治四年頃

明治元年から明治四年頃は神仏判然令への対応として、修験道側は大きく分けると以下の対応をとった。

  • 寺院として存続
  • 復飾(還俗)して神主になる
  • 帰農する(農民になる)

この時期は、新政府において一貫した政策がなく流動的であった。

明治五年以降

明治五年9月15日、太政官布告第二七三号「修験宗廃止令」の布告によって状況は深刻になっていく。

修験宗廃止令の原文
修験宗ノ儀、自今被廃止、本山当山羽黒派共従来ノ本寺所轄ノ儘、天台真言ノ両本山へ帰入被 仰付候條、各地方官ニ於テ此旨相心得、管内寺院へ可相達候事

修験宗廃止令を要約すると以下になる。

  • 修験者を仏教徒であるとみなす。
  • 修験道は宗派としては消滅させる。
  • 本山派は本寺(聖護院)所属のまま天台宗に帰入すること。
  • 当山派は、本寺(醍醐三宝寺)所属のまま真言宗に帰入すること。

修験宗廃止令が出るまでは、神仏ある程度区別することで修験道を継続できると考えられた。しかしこの廃止令によって修験道自体を一切認めないこととなり、はっきりと仏教になるように命じられてしまった。

なお、本山派当山派のいずれにも属さなかった修験道もあった。その一つの吉野修験(東叡山寛永寺を本寺)は天台宗、もう一方の羽黒修験(おなじく東叡山寛永寺を本寺)は荒澤寺所轄で天台宗に帰入することになった。

ただ、修験宗廃止令の政府の意図は、以下引用文献のように様々な見方があるようである。

「修験宗廃止令」の意図は、修験が神仏混淆の形態をとり信仰内容が低俗で民間の良俗に害があると判断して明朗化を図ったという説や、修験が無檀で呪術や祈祷を行い神仏習合に基づき社家の神社祭祀に関しても争いがあって危険視されたためとする説が提唱されていた。林淳は、国学者による神仏習合への批判や「雑宗の廃止措置」、淫祠邪教の廃絶が「修験宗廃止令」に繋がったとする説に異論を唱え、「復古神道家が活躍したのは明治初頭のみで、四年以降はむしろ政界から排除されていた」として、修験宗廃止令の目的は身分制度改革だとする。

宗教研究 2018年92巻2号 明治維新と修験道 鈴木正崇

修験道の本山への影響

神仏判然令の後、廃仏毀釈など激しい破壊活動が繰り広げられる地域もあった。ただこれに関しては、明治政府は廃仏毀釈を求めていたわけではなく、あくまで判然であって、はっきり分けるだけだと諫めている。

このような状況の中、本山への影響はどうであったか。

明治四年の「社寺領上知令」により寺社の土地を没収、土地は官民で区分け、廃藩置県による中央集権化、これら近代国家政策が実施された。これにより仏教寺院に加えて修験道も経済的基盤を奪われたため困窮したようだ。

各地の有力な修験道の本山は、神仏判然令以後、表面上は復飾したり、神仏を巧妙に分離したりしていたが、羽黒山は明治六年、吉野山は明治七年、英彦山も明治七年に強制的に神道化され、廃仏毀釈に巻き込まれて仏教色は払拭された。結果的には、羽黒山は神道化したが少数の寺院を残して修験の伝統をかろうじて維持し、吉野山は神社になったが民衆や講の力短期間で寺院に復帰し、英彦山は幕末の政治の混乱を経て台頭した勤皇の志士の活動で神道化された。安丸良夫は明治初期の王政復古と祭政一致、神仏分離政策に関して「民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった」と述べる。明治維新の政策の多くは近代的国家体制確立のために復古の幻想を装いつつ、人々の内面性を政治的に絡めとる政策であったと言える。

宗教研究 2018年92巻2号 明治維新と修験道 鈴木正崇

以上のように明治期の修験道は、廃止に追いやられ様々な対応をとった。こうしたことを乗り越えて現在の修験道に至ったのである。消失してしまったものは多いと思われるが、今もなお修験道は継承され、その活動を継続している。現在の修験道についても色々と調べてみたいところである。




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