神仏習合- 山岳信仰との融合の一例

前回の神仏習合の記事では、仏教伝来から始まり、神と仏の関係性が3分類できることを紹介した。そして最後に、その関係性の中で最も進んだ考え方である本地垂迹説が浸透しつつあった時代の話について書いてみた。

今回は、神道の中でも本地垂迹説に基づいた神道(仏教的神道)、中でも山岳信仰と融合した神道についてみてみる。

仏教的神道で代表的なものは、山王神道と両部神道の二派である。

いずれの二派も、仏教的側面が大きいことから、明治の神仏分離・廃仏毀釈運動の影響をかなり受けたようである。

山王神道は天台宗、両部神道は真言宗の仏教哲理による解釈から、理論が体系化されたといわれている。
実のところ、その理論化を進めたのが、僧侶であったという。

中世初期(平安時代末期から鎌倉時代初期ごろ)、高僧たちが神道の理論化を推し進めるようになった出発点は彼らの危機意識であり、その代表例は前記事で書いた貞慶の「興福寺奏上」である。

*貞慶は浄土教などの神祇不拝を良しとする宗派を糾弾し、朝廷に訴えた。

また、古代の国家体制が崩壊していく中で、当時の神官たちは経済的な基盤を失いつつあった。
さらに神道は、国家体制の役割として祭祀の執行を任されていたものの、仏教のように組織化されているとはいえない状況であった。

したがって僧侶側が考えた仏教的神道(山王神道や両部神道)の思想を受け入れざるを得なかったともいわれている。

今回は山王神道、そしてその基となった山王信仰について調べてみた。

山王神道(山王信仰)

山王信仰は、日吉大社(滋賀県大津市)を本社とする。

お生みの比叡山一帯に古くからあった山岳信仰が起源と言われている。
平安時代に入ると最澄(762~822)が比叡山に延暦寺を建て、その一帯で古くから信仰されてきた神々を延暦寺の鎮護神として山王と呼ぶようになったようである。

この山王信仰が理論化し、山王神道が成立していったようだ。

山王信仰ついて、滋賀県立琵琶湖文化館の渡邊勇祐先生の論考を以下で紹介する。

“比叡山延暦寺が創建されて以降、地主神を「山王」と称し、天台の護神、主神として位置づけていく。この神仏習合現象を山王信仰と呼ぶ。

 その過程で、比叡山東麓に所在する日吉社(現・日吉大社)も仏教化し、天台宗の隆盛とともに祀る神も増加、さらに諸国に天台宗寺院を建立されると、あわせて鎮守の神として山王の神が観請されるなど、全国的な山王信仰の広がりをみせる。

こうしたなかで数多の神仏習合美術(山王曼荼羅、懸仏、神像など)が創作された。

 しかし、明治の神仏分離、それに端を発する廃仏毀釈の運動から、日吉社の仏教色は排除されて現在に至るのである。

1.古の比叡山

天台宗の開祖・最澄(762~822)が入山する以前の比叡山はどのような場所であったのだろうか。


『古事記』には、「(前略)・・・大山咋命。またの名は山末の大主の神。この神は近淡海の国の日枝の山にます。また葛野の松尾にます、嗚鏑を用ちたまふ神ぞ。・・・(後略)」とある。


ここでは「日枝の山」(比叡山)に大山咋神という神が鎮座し、葛野の松尾(松尾社)と同神であるとしている。


(中略)このように比叡山は、延暦寺開創以前より神が宿る「神山」であって奈良時代には寺院も建立されていたことが推察される。


通説では、在来神である大山咋神(小比叡神)が鎮座し、大津宮建設に際して大和国三輪山より大三輪神(大比叡神)が勧請されたとする。


ただし、「山王」という文言や概念を見出すことはできない。

2.天台の名僧と山王

(中略)そもそも山王とは、最澄が学んだ中国天台山において祀られた神仙「山王元弼真君」に由来するもので、最澄はこれにならって比叡山の神々を山王と称したとされる。

すなわち、最澄は天台教学をはじめ密教や禅を中国より日本に持ち帰ったが、神仏関係についても大陸より移入したと考えられるのである。

山王信仰が拡大を見せるのは、第5世天台座主・円珍(814~891)のときである。

というのも、円珍治山期より大比叡神・小比叡神に聖真子をくわえた「山王三聖」という概念が確認されるようになり、三社体制が成立する。

さらに元慶4年(880)には、大比叡神に正一位、小比叡神に従四位上の神階が昇叙される。


ちなみに、この時の大比叡神の神階は、近江国の中でトップである。

また、仁和3年(887)には円珍の上表によって、大比叡神・小比叡神に充てた神年分度者(国家に認められた神のために奉仕する年毎の出家者)が2人許可される(「日本三代実録」)。


この時の円珍の上表には、「(前略)当時の法主は大比叡小比叡の両明神なり。


陰陽不測。造化无為。弘誓は仏に亜ぎ、護国を心と為す。伝ふる所の真言潅頂の道、建つる所の大乗戒壇の検、祖師の創開は、専ら主神に頼る。(後略)」(「日本三代実録」仁和3年3月14日条)とあって、円珍は大比叡神・小比叡神を「当寺の法主」と言い、また神々を天台宗の「主神」と位置づける。

このように、円珍治山期に「山王三聖」が成立し、名実ともに天台宗の護り神、主神へと展開するのである。

次に、山王との関わりにおいて重要な人物が第15世天台座主・良源(912~985)である。
良源は、天皇や摂関家の援助を得て、荒廃した比叡山の堂舎などを次々に復興した天台の中興の祖といわれる人物である。

この時、堂舎の復興とともに山王三聖を祀る社殿を新造し、さらに地主三聖祭(後の山王祭)の規模を拡大した(「天台座主記」)。

また、延暦寺僧総員に季節ごとの山王への読経参修を義務づけ、懈怠不参の者を厳しく処罰するなど、山王信仰を拠った山内統制をはかった(「慈恵大僧正伝」)。

3.神威の高まり

保延3年(1137年)の年記をもつ日本最古の起請文、長浜市塩津港遺跡出土の52号木簡には、誓約する神の名が天部の神から日本の八百万の神まで列記されている。


そのなかには「当国鎮守山王七社」という記載があり、平安時代末期には山王三聖体制から山王七社体制へと山王信仰が拡大・発展しただけでなく、近江国の守護神として信仰されていたことをうかがわせる。

そして、上記の木簡が製作された時期と同じくして、これらの山王の神々に拠った山門強訴という現象が頻発する。


山門強訴とは、延暦寺の僧侶や日吉社の神人たちが自らの拠り所とする山王の神々の神輿を都に動座するなどしてその神威を誇示し、朝廷や院に対して自らの訴えや要求を突きつける行為のことで、もし、その訴えや要求を拒否したり、また動座を邪魔するなどした場合は、神罰、仏罰がくだるとして大変恐れられた。

このため、当時の朝廷や公家の人々は直接対峙することを避け、強訴の現場に武士を投入する。


この山門強訴を題材とした近世絵画が琵琶湖文化館にある。それが「山法師強訴図」屏風である。

(中略)延暦寺以外にも、例えば、ならの興福寺では春日大社の神木を動座して強訴が行われたように、多くの大寺院が自らの要求を訴えるための闘争手段として、また神仏習合の思想に基づく行動として、強訴は頻繁に行われた。

4.山王曼荼羅の世界

奈良時代には「神身離脱」(神は我々と同じく迷える存在で、仏に帰依する)や「護法善神」(神は仏教、寺院を守護する)といった神仏習合思想が展開するが、平安時代になると、この世の神は実は衆生済度のために示現した仏である、という「本地垂迹」説が登場する。


この本地垂迹説は天台教学のなかで理論化され、積極的に宣揚された。

そして、平安時代末期になるとこ個々の神の本地仏が定められるようになり、山王七社の神々についても本地垂迹関係が定められるようになる。

そしてこの本地垂迹説に基づいて描かれた宗教画を垂迹画、ないし垂迹曼荼羅といい、山王の神々を描いたものを山王曼荼羅という。

そのうち代表的な山王曼荼羅が、湖東三山の一つとして知られる百済寺(東近江市)に伝わる重要文化財・日吉山王神像(日吉山王宮曼荼羅図)である。


本図は鎌倉時代の作品で、背景に日吉社境内を描き、山王七社の神々を実際の社殿配置にほぼならって、円相になるように本地仏の姿を描く。

これを一例として、近江発祥の神仏習合・山王信仰にまつわる神仏習合美術は、近江の宗教文化を特徴づけるものとして、今も県内各地に受け継がれているのである。“

鈴鹿山麓混成博物館フォーラム1 「神様が好きですか?仏様が好きですか?神仏習合文化を再考する」P8-9, 2019年

山王信仰と仏教が習合して発展していった山王神道は、さらに時代が進むと、
織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉社が全焼するなどした。

これにより現在の日吉大社は、安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものであるといわれている。

明治の神仏分離令により、日吉社は延暦寺から独立し、社名が日吉大社となり、現在に至る。
観光名所としても日吉大社は知られているので、ぜひ行ってみたい。

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