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第50代 桓武天皇 – 平安時代のはじまり – 早良親王の祟りを恐れて平安京に遷都

目次

はじめに

今回は、第50代 桓武天皇について書いていきたいと思う。

桓武天皇は、平城京から長岡京、そして平安京への遷都を行った。
遷都の背景には、早良親王の祟りへの恐れがあったといわれている。
ご存知のように平安京は、現在まで続く京都の町の基礎となっている。

本記事では桓武天皇について掘り下げ、調べたことを共有したい。

桓武天皇について

桓武天皇の基本的な情報は以下の通りである。

  • 生没年:737年~806年 (70歳で崩御)
  • 在位年:781年~806年
  • 在位中の元号:延暦(782年~806年)
  • 父:第49代 光仁天皇、母:高野新笠(たかのにいがさ)
  • 皇后:藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)
  • 皇妃:藤原旅子(ふじわらのたびこ) ほか
  • 御名, 異名:山部(やまべ)、日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてらすのみこと)、延暦帝、柏原帝

平安京への遷都

桓武天皇 即位

父である49代 光仁天皇は、他戸親王(おさべしんのう:桓武天皇の異母兄弟)を皇太子にしていた。
しかし、他戸親王の母(井上内親王)が、他戸親王を呪詛し、これを問題視した光仁天皇が親子共々廃した。

上記により、代わって皇太子となったのが、山部親王(後の桓武天皇)である。

その後、781年に光仁天皇から譲位され、桓武天皇として即位した。

藤原種継 暗殺事件 首謀者は早良親王か?

桓武天皇は即位当初、弟である早良親王(さわらしんのう)を皇太子に立てた。
しかし息子の安殿皇子(あてのみこ)が生まれ、次の皇位は息子にしたいと桓武天皇は考えた。

当時、凶作と疫病の蔓延から、平城京から長岡京への遷都を計画していた。
造営使を藤原種継が担い、遷都は進められてきたが、奈良仏教勢力他の反対する者も多かった。
そうした中、造営場所を視察していた藤原種継は、暗殺されてしまった。

桓武天皇は、この暗殺事件の首謀者を早良親王と断定。
早良親王は淡路へ流されることとなった。

当然、早良親王は異議を唱えたが相手にされず、淡路へ護送される途中で亡くなった。

早良親王の祟り

桓武天皇は息子の安殿皇子を皇太子に立てることができた。
しかしほどなくして、様々な痛ましいできごとが立て続けに起こった。

はじめに、皇妃の藤原旅子が若くして亡くなった。
その後、桓武天皇の母である高野新笠、皇后の藤原乙牟漏が次々発病して亡くなった。
さらに、息子の安殿皇太子も体調不良となった。

これらの原因を調べるため、桓武天皇は陰陽師に占わせ、原因は早良親王の祟りであることが判明した。

平安京への遷都を決意

桓武天皇は、度重なる忌まわしい出来事および人心の一新を図るべく、平安京への遷都を決意した。
長岡京へ遷都後わずか10年での出来事である。
そして794年に平安京は誕生した。

しかし平安遷都後も長い間、早良親王の祟りを恐れた。
早良親王の怨霊をおさめるべく、早良親王の霊を祀った。

それでも祟りは鎮まらず、800年(延暦19年)に富士山が噴火した。(延暦大噴火)
同年、早良親王に崇道天皇を追号した。

平安京について

平安京は風水(四神相応 しじんそうおう)にもとづき設計されたと言われている。

四神相応とは、東西南北を神に守られた土地のことを言う。
それぞれ、東:青龍、西:白虎、南:朱雀、北:玄武 と対応関係がある。

具体的には、青龍は河川、白虎は大道、朱雀は湖沼、玄武は山岳を意味している。
平安京の場合、四神相応は以下のような対応関係という説がある。

  • 東:青龍 = 鴨川
  • 西:白虎 = 山陰道
  • 南:朱雀 = 巨椋池
  • 北:玄武 = 船岡山

また、平安京は唐の長安をモデルにした造りであり、碁盤の目状に町が分かれるのが特徴である。
この平安京は、現在の京都の町の基礎となった。

東北の蝦夷討伐

桓武天皇は東北地方を治めるため、蝦夷討伐を行ったことでも知られる。

797年に、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷平定をさせた。
801年に進軍して蝦夷討伐を成功させた。

坂上田村麻呂は多賀城の北に陸奥統治の拠点として胆沢城(いさわじょう)を造営した。

802年、蝦夷の長であるアテルイが胆沢城に投降し、その後に平安京に連れてこられることになった。
坂上田村麻呂はアテルイを助けたがったが、処刑されてしまった。

中国文化の導入

文化面では、遣唐使に最澄と空海を随行させるなど、中国文化の導入に力をいれていた。

桓武天皇は唐の制度を取り入れ、宮中で天皇の看病などを担当する内供奉十禅師を設置。
797年に、内供奉十禅師の一人として採用されたのが最澄であった。
802年、最澄は入唐し天台宗を学んだ。

一方、空海は私費の留学僧として遣唐使船に乗船。
26年ぶりに出航された遣唐使船には、偶然、桓武天皇が派遣した最澄が乗っていた。
空海は唐で真言密教を学んだ。

後に、最澄は天台宗、空海は真言宗の開祖となった。

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