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竹生島の祭事 蓮華会 ~神仏習合の一例~

目次

はじめに

今回の記事では、滋賀県にある竹生島で行われている祭事の一つ、蓮華会(れんげえ)について紹介する。蓮華会とは、古くから竹生島で行われている祭事であり、神仏習合的な観点から非常に興味深い内容となっている。

調べた内容についてなるべく正確にまとめたつもりだが、記載内容に間違いがあるかもしれない。間違いに気づいた時点で随時修正していく予定とさせてください。

竹生島とは

滋賀県長浜市の湖岸から約6kmのところ、周囲2km、面積0.14平方kmの島である。2016年には日本遺産に登録されている。西国三十三所札所めぐり第三十番札所「宝厳寺」と「都久夫須麻神社(竹生島神社)」など、古くから人々の信仰を集めている。

宝厳寺は、日本三大弁財天の一つである大弁財天が安置されている。現在ではパワースポットとしても有名である。

近江国風土記の逸文によれば、多々美比古命(伊吹山)と浅井比売命(浅井山)が高さ比べをして、負けた多々美比古命が、浅井比売命の首を切ってしまい、その首が湖に落ちてできたのが、竹生島と伝えられている。

住所は滋賀県長浜市早崎町1664-1であり、アクセス方法は定期船のみとなっている。「長浜港」「今津港」「彦根港」の各港から定期船が出ている。アクセス方法はこちらを参照ください。

蓮華会

竹生島の蓮華会のいわれは、島に雨が降らず病気が蔓延したことを受けて、雨乞いを行ったことであるとされている。

竹生島の神は弁財天であるが、本質的には水神女神であると言われている。宝永8年の蓮華会略儀式之事において、「一、御産免状 銀五枚 一、鯰免状 銀五枚」と書かれている。氏子の女子は出産に際しては女神が嫉妬をしないように金品を納めて許可を得る必要があったことがわかる。また水神とであるがゆえに、島周辺の海で鯰を漁獲し食するには島の神の許可をえるため鯰免状を受ける必要があったようだ。雨乞いと何らかの関係があると思われるが、詳細は不明である。

蓮華会と呼ばれる祭事は竹生島の他にも、出羽羽黒山、洛北鞍馬寺、大和吉野山など天台系の修験霊場においても夏の峯入りの際におこなわれるようだ。

本記事は竹生島の蓮華会にフォーカスしている。

竹生島 蓮華会の概要

浅井(あざい)郡の氏子から選ばれた二組の頭人(とうにん)夫婦が、6月頭にそれぞれの屋敷の庭に設けられた弁財天の仮屋へ竹生島から榊(さかき)を依代とした神霊や御幣を預かってそれぞれの家で祀り、同月15日にこの榊や御幣などを再び竹生島へ送り返す行事を中心に展開する祭りである。最古の記録は貞元2年(977)である。室町時代後期や江戸時代初期には複数の「竹生島祭礼図」が描かれ、飾りたてた多数の船で竹生島へ向かう人々の様子が描かれている。蓮華会はかつて6月15日であったが現在は8月15日におこなわれるようになった。明治時代以降、宝厳寺の行事となっている。これは神仏判然令の影響が大きい。

頭人らは、長浜港から出港の船で竹生島に渡る。蓮華会の日は、寺と神役が世話をし、神役は14・15・16日と島へ行く。お稚児さんが頭人たちを案内する。一日の行事は、10時ごろからお練りをし、10時半ごろから一時間ほどお勤めをし、12時ごろに終わり、直会をする。最近は午後2時半ぐらいの船で帰ることが多い。

頭人(とうにん)
頭人には信仰心があり、地域から信頼されている人物が選ばれる。頭人になることは名誉であり、古くは頭人になると米100俵を出したとされている。神役が候補者の中からくじで頭人を決定し、住職が頭人の名前を木の箱に墨書し、宝厳寺の観音堂で祈祷した牛玉箱に納められ頭人の家に持っていかれる。頭人に選ばれることは、村の長者になると語られ、現代では大阪などから選ばれることもある。

榊を依代とするために、事前にサカキイレ(榊入れ)と呼ばれる神事を行う。これは頭人の家で法要を行う神事である。神役や僧侶は弁天さん(榊)を仮安置した後、頭人の家まで行列を組んで練り歩く。頭人には奉納の品を渡し、法要が終わった後には直会を開催し、親戚や招待客を招いて祝う。サカキは神様のものであるが、蓮華会では使われ、法要の時には住職がシキビの葉を持って拝むが、供えるのは榊だけである。竹生島には多くの弁天さんがあり、その中から一体を選んで頭人の家に持ってくる。また、頭人を務めたことのある家はレンゲヤサンと呼ばれ、弁天を祀るお堂や石碑を建てることがある。商売をしている家では、歌手や太鼓、祇園の舞子を呼んで披露することもある。

竹生島と神仏分離

明治時代の神仏分離の時代には、神仏判然令を拡大解釈した人たちによって廃仏毀釈の動きがあり、竹生島の宝厳寺も廃寺の圧力を受けたようだ。なんとか廃寺を逃れることができたという。詳細は以下、宝厳寺公式ホームページの説明の通りである。

明治時代、この島は大きく変化し、当山より都久夫須麻神社(竹生島神社)が分かれました。古来、現在の神社本殿を当山は本堂とし、本尊大弁才天を安置しておりましたが、明治元年(1868年)に発布された『神仏分離令』とそれに起因して過激化した「廃仏毀釈」運動の影響を受け、明治4年、大津県庁より、当山を廃寺とし神社に改めよという命令が下りました。
しかしながら、全国数多くのご信者皆様の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなりました。
本堂のないままに仮安置の大弁才天でしたが、昭和17年、現在の本堂が再建されました。

竹生島・宝厳寺 ~西国第三十番札所~ │ 宝厳寺のいわれ (chikubushima.jp)

蓮華会については、神仏習合的な要素があることから、神仏分離の時代、明治6年にはこの行事を執行してもよいかどうかに関し、神職と僧侶の連名にて大津県庁へ許可を得るためのお願いをしている。無事にこの行事は行うことができたようだ。神仏を判然せよと言われる中、この行事が仏事とも神事とも判断しかねるところが民間の当事者たちにもあったようで、官庁の許可なしにはできないと考えていたと思われる。

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