中大兄皇子といえば、乙巳の変の首謀者で蘇我入鹿の首を取ったことや、大化の改新で有名だろう。
詳しく覚えていなくても、名前だけは知っている人も多い歴史上有名な人物である。
この時代はまさに、豪族の力を抑えて天皇中心の政治、中央集権国家を目指した時代であった。
今回はそんな中大兄皇子の一生を、生まれたときから崩御されるまでをフォーカスすることで
中大兄皇子がどんな人物であったのか、どんなことをしてきたのか、それらを記事にまとめてみた。
中大兄皇子について詳しく知りたいと思っている方は、ぜひ読んでみてほしい。
今回の記事は以下の本を参考にしたので、紹介しておく。
中大兄皇子が生まれた時代
生626年~没671年とされる。
父は第34代 舒明天皇、母は第35代 皇極天皇(後に再び即位され第37代 斉明天皇となる)である。
628年、中大兄皇子が2歳のとき、第33代 推古天皇が崩御された。
このとき、推古天皇は次の皇位継承者を決めていなかった。
当時、皇位継承権を持っていたのは
- 田村皇子(後の第34代 舒明天皇で、中大兄皇子の父)
- 山城大兄王(聖徳太子の長子)
のお二人であった。
蘇我氏により山城大兄王を擁立する主力の人物が殺されてしまったため、田村皇子が第34代天皇に即位されることとなった。ここで蘇我氏が田村皇子に皇位継承させたかった理由は、田村皇子に自分の娘を嫁がせていたからという説もある。
田村皇子への皇位継承の詳しい経緯は、以下の通りである。
推古天皇が聖徳太子の薨去後、皇太子を立てなかったことから、天皇の崩御にともない皇位継承をめぐる紛議が起こった。皇位継承者に擬されたのは、押坂彦人大兄皇子の子、田村皇子と聖徳太子の息、山背大兄王である。当時朝廷を束ねる立場にあった大臣蘇我蝦夷はいずれを後嗣とするかで大いに悩んだ。
中公新書 歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(増補版) 笠原英彦
蝦夷は群臣らの意向に気を配り、阿部麻呂臣と協議して、群臣らを大臣の邸で饗応することにした。阿部麻呂臣が仕切り役となって群臣会議が開かれたが、そこで焦点となったのは推古天皇の遺詔であった。遺詔は実にその内容が微妙であり、天皇は田村皇子に対しては「天下を治めることは大任である」とし、山背大兄王には「群臣の言葉に従え」と告げた。評議は膠着したが、大伴鯨連が田村皇子への遺詔をもって皇位継承者を示唆するものとしたのを皮切りに、意見は二分し、采女臣摩礼志、高向臣宇摩、中臣連弥気、難波吉士身刺の四人が田村皇子を推し、許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣塩手の三人は山背大兄王を推挙した。蘇我倉麻呂臣は態度を留保した。これに足して、蝦夷は何ら意見を集約する術をもたなかった。
一方、斑鳩宮にあった山背大兄王はそうした合議を漏れ聞くや、三国王と桜井臣和慈古の二人を蝦夷のもとへ送り、真意を確かめた。蝦夷は即答を避け、阿部臣ら大夫を斑鳩宮に送り、山背大兄王にその意向を伝えた。山背大兄王は事情をひとしきり聞くなり、自らに対する推古天皇の遺詔が違ったものであったことを表明した。山背大兄王は皇位への野心を否定したが、山背大兄王の言う先帝の遺言はさらに意味深長であり、叔父の大臣が将来自分が即位する可能性を示唆したとして、攻勢に出た。山背大兄王は再三桜井臣らを大臣のもとへ送り、皇位への執着を示した。
蝦夷は自己の真意を語ることに慎重であったが、終始山背大兄王の擁立を主張していた堺部摩理勢を葬ることで、田村皇子即位への道を切り開いた。
皇極天皇の時代:中臣鎌足との出会い、乙巳の変
641年、中大兄皇子が15歳のとき、父の舒明天皇が崩御された。
642年には、母が第35代 皇極天皇として即位されることとなった。
皇極天皇が即位されることになった理由として有力な説は、
皇位継承の選択肢が今回も複数あり、前回の舒明天皇即位の時のような争いを避けるため
女性である皇極天皇が即位されたのではないか、というものである。
皇極天皇については以下の記事を読んでみてね!
上記の記事でも述べたが、皇極天皇以外の皇位継承の選択肢は以下の三人であった
- 山背大兄王(聖徳太子の子)
- 古人大兄皇子(舒明天皇の第一皇子、母は蘇我馬子の娘)
- 中大兄皇子
この頃、蘇我氏の朝廷に対する影響力が増加の一途をたどっていた。
そうした中、蘇我蝦夷から蘇我入鹿へ徐々に権力が移行していった。
蘇我入鹿は、父(蘇我蝦夷)と違って、後先を考えない大胆な行動をとる傾向があったようである。
その証拠に、特段大きな理由もなく、皇位継承権を持つ山背大兄王を急襲し、自決に追いやってしまった。
これは、蘇我氏の血筋を持つ古人大兄皇子を次の天皇に即位させるためであったといわれている。
上記は、中大兄皇子がおよそ15~18歳の頃の出来事である。
このような状況に対して、中大兄皇子が非常に強い危機感、恐怖感を持っていたことが想像できる。
古人大兄皇子が次期天皇になれば、蘇我氏の傀儡政権になってしまうのではないか、という危機感、
そして、皇位継承権を持っている中大兄皇子自身、いつ命を狙われるか分からない、という恐怖感である。
転機となったのは、同じく蘇我氏に対して危機感を抱いていた中臣鎌足との出会いであった。
ある時、中大兄皇子が蹴鞠を興じていた際に誤って靴が脱げてしまい
それを中臣鎌足が拾ったというエピソードが残っている。
そして645年6月、中大兄皇子19歳のとき、
三韓の調を奉納する日、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿の首をはねた。
この出来事のことを乙巳の変という。
そして、乙巳の変が起こった645年(皇極四年)は、後に大化元年に改められた。
この時からの一連の改革を大化の改新と呼ぶ。
乙巳の変に至るまでの詳細は以下の通りである。
しだいに病気がちの蝦夷が登朝しなくなったのに対し、子の入鹿は密かに紫冠を戴いて大臣の地位になぞらえられた。入鹿は独断専行して上官の王、すなわち山背大兄王を廃して古人大兄皇子を天皇に擁立しようと謀った。入鹿は巨勢徳太臣、土師娑婆連に命じて斑鳩にある山背大兄王を急襲した。(中略)
中公新書 歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(増補版) 笠原英彦
そうするうちに、山背大兄王は子弟妃妾らともども自決して果てた。(中略)
皇極天皇三年(六四四年)一月、中臣鎌足は神祇伯への任官を辞退して摂津の三島に移った。鎌足は密かに志を抱いて軽皇子(のちの孝徳天皇)に接近した。軽皇子は鎌足を厚くもてなし、ために鎌足は感激して皇子を天下の王に擬するまでになった。鎌足の志とは人の道をわきまえず天下をほしいままにする蘇我入鹿を除くことであった。
次に鎌足が接近したのは中大兄皇子である。中大兄皇子があるとき、法興寺の槻の木の下で蹴鞠を興じていた際、皇子は誤って靴を脱ぎ落した。通りかかった鎌足はすかさずこれを拾って皇子に捧げた。これを機縁に両者は言葉を交わすようになり、ついには入鹿打倒を目指して志を同じくするに至った。二人は人に怪しまれぬようにと南淵請安のもとに儒教を習いに行く道すがら、密かに策を練った。策を実行するには蘇我倉山田石川麻呂の後押しが必要であるとの鎌足の進言を入れ、中大兄は石川麻呂の娘をもらい受けた。
皇極天皇四年六月、機が熟したとみて中大兄皇子は三韓の調を奉献する日を選び、石川麻呂が大極殿に出御し、古人大兄皇子らが陪席した。鎌足は、日ごろから注意深く慎重な入鹿の性格を知悉していたことから、わざと俳優を配して入鹿の帯びた剣を解かせた。中大兄皇子らは入鹿が入場すると諸門を固め、自らは長槍を持って宮殿のわきに身を隠した。鎌足は海犬養連勝麻呂に命じて佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に剣を渡し、すばやく入鹿に斬りかかるように伝えた。ところが、子麻呂らはいざとなると怖気づき、なかなか斬りかかろうとしなかった。上表文を読み進める石川麻呂はなかなか刺客が登場しないのにたじろいで大汗を流した。異変に気付いた入鹿が石川麻呂に問いかけるやいなや、中大兄皇子らが躍り出てついに入鹿を斬りつけた。
天皇は惨劇を目の当たりにして、中大兄皇子に説明を求めた。そこで中大兄皇子は、皇位を簒奪しようとする入鹿の悪行を余すところなく糾弾した。古人大兄皇子は一目散に私邸に逃げ帰り、蝦夷は追い詰められて自刃した。皇極天皇は軽皇子に位を譲ったが、この乙巳の変を機に、わが国史上初の譲位が断行されたことになる。
乙巳の変が起こった当時、蘇我氏は一枚岩ではなかった。分家(倉麻呂の血筋)は以下の四名が主要人物である。
石川麻呂(倉山田)、赤兄、日向、果安の四名である。
孝徳天皇の時代:大化の改新、権力闘争と後継ぎ争い
645年、軽皇子(中大兄皇子の母である第35代 皇極天皇の兄弟)が、孝徳天皇として第36代天皇に即位された。
中大兄皇子は皇太子になり、中臣鎌足は大錦の冠位を受けることとなった。
中大兄皇子が政治的権力を持つようになったのはこの頃からである。
646年には、改新の詔をが発せられ、天皇が中心の政治を目指して中央集権国家のもととなるような整備を行った。
戸籍の確立、班田収授法などが代表例である。
豪族たちが地方の長として分権されていたのを、これらの改革によって中央に権力を集中させた。
豪族からの反発が予想されたため、豪族が国の政治に参加できるように冠位十九階をつくり、納得させた。
冠位十九階は現代で例えると、官僚制のことである。
これら一連の改革を大化の改新という。
このような政治改革を行う中、権力闘争や跡継ぎ争いが水面下で繰り広げられていた。
第一に、古人大兄皇子(蘇我氏本家の血筋をつぐ)の謀反である。
645年9月、謀反を起こそうと計画したが露呈してしまい、中大兄皇子らによって討たれてしまった。
第二に、蘇我倉山田石川麻呂である。
蘇我日向のタレコミ(後にこれは嘘であることがわかっている)により、蘇我倉山田石川麻呂が謀反を起こそうと
計画していると知った中大兄皇子らは、蘇我倉山田石川麻呂を問い詰めた。
最後まで忠誠を誓っていたが信じられず、自害してしまった。
権力闘争の詳細については以下の通りである。
この年の九月、古人大兄皇子は蘇我田口臣川堀、物部朴井連椎子、吉備笠臣垂、倭漢文直麻呂、朴市秦造田来津らとともに謀叛を企てたとされる。ところが、まもなく吉備笠臣垂が中大兄皇子のところに自首したことから、企てはにわかに露顕した。中大兄皇子は兵を送って古人大兄皇子らを討った。(中略)
中公新書 歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(増補版) 笠原英彦
左大臣、阿部内麻呂が薨去してまもなく、蘇我倉山田石川麻呂の謀叛が発覚した。もっとも、これは天皇が蘇我臣日向の讒言を真に受けたために生じた出来事である。皇太子を害するとした日向の言葉を信じた天皇は、石川麻呂のもとへ大伴狛連、三国麻呂公らを遣わし、事実を究明した。石川麻呂は直々に天皇に申し開きをしたいと願ったが聞き入れられず、結局その子、興志の建立した大和の山田寺に身を寄せた。『日本書紀』によれば、石川麻呂は最後まで忠誠心をもちつづけ、自ら首をくくって死を選んだとされる。のちに没収された大臣の資材から真実をつかんだ中大兄皇子は大いに悔いたとされる。
これは私の考えであるが、中大兄皇子は生まれてからこの頃まで、常に権力闘争に巻き込まれ続けていたため
どんなに小さな疑いであっても、心配事はすべて潰して安心したいというマインドになっていたのではないかと推察できる。
斉明天皇の時代:つづく権力闘争(有間皇子)
654年には孝徳天皇が崩御され、
翌年の655年に中大兄皇子の母(前天皇:皇極天皇)が、斉明天皇として第37代天皇に再び即位された。
この時、中大兄皇子は30歳ごろである。
孝徳天皇や斉明天皇の時代について詳細は、以下の記事にて書いている。
斉明天皇の時代でもやはり権力闘争が繰り広げられていた。
有間皇子(第36代 孝徳天皇の息子)の謀反によるものである。
結論から言えば、有間皇子は蘇我赤兄に騙され、謀反の罪にかけられた事件である。
詳細は以下の本に記載されている。
斉明朝において微妙な立場にたたされたのが有間皇子である。有間皇子は先の帝、孝徳天皇のたった一人の遺児であり、父天皇が皇太子中大兄皇子と対立してさびしく最期を迎えたことから、周囲の疑いを免れようと狂人を装ったといわれる。折しも斉明天皇の最愛の孫、建王を失った悲しみを少しでも癒そうと紀の湯に行幸中であった。
中公新書 歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(増補版) 笠原英彦
その留守をあずかる蘇我赤兄が有間皇子をそそのかすべく、天皇の失政をあげつらった。赤兄によれば、斉明天皇には三つの失政があり、第一は大きな倉を建てて財を蓄えたことであり、第二には長い水路を掘って多数の人夫を動員し多額の出費をしたこと、第三には舟に石を多数積んで運び丘を築くといった無駄な事業に手を染めたことなどが指摘された。有間皇子は赤兄の口車に乗せられて「わが生涯で初めて兵を用いるときが来た」などと応じたため、赤兄に言質をとられる格好となった。皇子は翌々日、赤兄を自ら訪ね高殿に登って謀議をめぐらした。その際床几がひとりでに壊れ、不吉な前兆を示した。皇子は恐れていったん計画を見送ったが、一説によれば、五百人の兵を動員して飛鳥の宮を焼き、熊野に出て港を囲み、急遽舟軍で淡路国を迎えようなどといった作戦まで練り上げたともいわれる。
その夜、赤兄はこれを逆手にとって皇子の邸を兵で包囲した。そして赤兄が朝廷に通報したため、ほどなく有間皇子は尋問を受ける身となった。有間皇子の言い分は通らず、結局皇子は絞殺され、新田部連米麻呂ら側近も斬られたり、流されたりする運命となった。
そして661年、斉明天皇が崩御し、中大兄皇子が政治の実権を完全に握ることになる。
天智天皇(中大兄皇子)の時代
661年に斉明天皇が崩御し、すぐに中大兄皇子が天皇に即位されたわけではなかった。
天皇に即位されずに政務を執り行ったのである。
このように即位されずに政務を執り行うことを称制という。
称制期間は661年~668年で、
第38代 天智天皇として即位された期間は668年~671年である。
つまり中大兄皇子は、35歳~45歳のころに帝として君臨されたことになる。
当時の外交情勢について
斉明天皇の時代から、日本と交流の深かった百済が新羅の侵攻を受けるようになった。
また、高句麗は、唐と新羅から侵略されていた。
このような状況のなか、663年、中大兄皇子は百済からの要請を受け、軍を送ったが
白村江の戦いで唐の大軍に大敗北を喫することになる。
この敗北で、日本は唐の侵略を受ける恐れが出てきてしまったのだが
幸いなことに、唐とモンゴル勢力の戦いが勃発したため
唐と日本は、いったん友好関係を築くこととなった。
しかしながら、唐からいつ手のひらを返されるかわからない状況であった。
豪族たちの不満、中臣鎌足との別れ
前述の白村江の戦いにて、労働力を相当浪費することとなった。
そのため、豪族たちからの不満が爆発寸前になっていたといわれる。
それに加えて中臣鎌足が病に伏したことで、中大兄皇子の心労は大きかったと推察できる。
詳細は以下の通りである。
同天皇六年三月、人心の一新を図るうえから、中大兄皇子は都を大和の飛鳥から近江に遷した。しかし、民衆の間では遷都は歓迎されなかった。ほうぼうで不満の声が上がり、これを諷諫する者も多数にのぼった。童謡もあまた歌われ、都のあちこちで昼夜となく火災が多発した。しかし遷都は朝廷として国防上やむをえぬ措置であった。
中公新書 歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(増補版) 笠原英彦
同天皇七年一月、皇太子はようやく即位し、天智天皇となった。(中略)唯一天皇の心労となったのは鎌足の病気であった。天皇は藤原内大臣の家に行幸して親しく病気を見舞った。鎌足は恐縮して外征の失敗を詫び、自らの葬儀の簡素化を求めた。天皇はさらに皇太弟、大海人皇子を藤原内大臣の邸に遣わし、大織冠と大臣の位を授けた。そして藤原の姓を賦与されたが、鎌足はまもなく他界した。
鎌足は天皇の重要な右腕であっただけに、天皇の失意は大きく、また鎌足を中心に進められていた律令の編纂もとん挫した。律は結局つくられることがなく、近江令も法典としての体裁を整えるには至らなかった。近江令については、その存在をまったく認めない説や単行法令の集積とみる説など、これまでさまざまな見解が示されてきた。
中臣鎌足に藤原の姓が賦与されたが、これが有名な藤原氏の始まりである。
天智天皇の晩年、大海人皇子(天武天皇)との確執
670年、大友皇子を太政大臣に、蘇我赤兄を左大臣、中臣金連を右大臣に任命した。
さまざまな説があるが、天智天皇(中大兄皇子)の晩年には
大海人皇子(中大兄皇子の弟)と関係が悪化したといわれる。
おそらくは、天智天皇が次期天皇に大友皇子(天智天皇の息子)
を立てようとしていたからではないかといわれる。
関係の悪化が分かるエピソードは以下の通りである。
「朝廷事無く遊覧を好む」と『大織冠伝』が伝えるとおり、天皇即位後まもない朝廷はいたって平穏無事であった。しかし、『藤氏家伝』によると、湖畔で催された宴席で、大海人皇子が長槍を持ち出し敷板を刺し抜いて座を乱し、天皇が激怒して殺そうとしたが、鎌足が間に割って入り諫めたことから大事には至らなかったとされている。天皇と皇太弟の間の確執の原因としては、太政大臣となった大友皇子との皇位継承争いや、額田王をめぐる恋の鞘当てなど諸説ある。
中公新書 歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか(増補版) 笠原英彦
晩年病気に臥せった天智天皇は、大海人皇子を呼び出し
次期天皇になるように促したが、これを大海人皇子は断った。
私の考えであるが、おそらくこれを受け入れれば、
皇位継承を企んだとして殺されてしまう、このように大海人皇子は考えたのだろう
これにより結果として、後の壬申の乱の火種を残すこととなった。
壬申の乱とは、大友皇子と大海人皇子の皇位継承をめぐる戦いである。
結果は、大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位されることとなる。
671年、45歳で天智天皇はその生涯に幕を閉じた。
近江宮で崩御され、山科陵に葬られたとされている。
※山科陵は、京都市山科区陵上御廟野町にある。
いかがだっただろうか。中大兄皇子という人物の一生が見えたのではないだろうか。
数多く権力闘争を繰り広げることとなった訳であるが
中臣鎌足とは心通じ合っていたのかもしれない。
中大兄皇子について詳しく知りたいと思った方にとって
この記事が少しでも参考になれば、うれしく思います。
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