【第35代・第37代】皇極天皇/斉明天皇:2回即位した女性天皇

金刀比羅宮 © 日本観光振興協会 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/

重祚(一度退位(譲位)した天皇が再び即位すること)されたのは、歴史上たった二回であった。

一つの事例として46, 48代 孝謙天皇/称徳天皇 を以前の記事では取り上げている。

今回はもう一つの例として、35, 37代 皇極天皇/斉明天皇について書いてみようと思う。

以前の記事の繰り返しになるが、重祚された二回の事例は、いずれも女性天皇のときであった。
昨今、女性天皇や女系天皇について議論が盛んになっていることから、
今回も女性天皇である孝謙天皇/斉明天皇について調べてみた。

なお、以下の本を参考にしている。

第35代 皇極天皇(六四二~六四五年)

舒明天皇は生前、子の天命(あめのみこと)開(ひらかす)別(わけの)皇子(みこ)(中大兄皇子(なかのおおえのみこ)のちの天智天皇)を皇太子に立てていた。
皇子は舒明天皇の殯(埋葬までの間、死体を安置して儀礼を行うこと)のときに、十六歳で霊に向かって「しのびごと」(故人を偲んで述べることば。弔辞)を述べた。
 しかし、皇位を継ぐには若過ぎると判断されたのか、即位したのは舒明天皇の皇后である宝皇女だった(皇極天皇)。

 皇極天皇の時代は気象が頻繁に現れ、長雨や日照りが続いたり暖冬や冷夏になったりした。
六四二年(皇極元年)にも日照りが続き、牛馬を殺して諸社の神に祈ったり河の神に祈ったりしたが、雨乞いの効き目はなかった。

蘇我蝦夷もたくさんの僧を集め、雨乞いのための読経をさせたが、大した効果はなかった。

 そんななか、天皇は南淵(明日香村)の川上で、自ら跪き四方を拝し、天を仰いで祈った。
すると雷が鳴り、大雨が降った

雨は五日間降り続け、国中の農民はみな喜び、「たいへんな徳をお持ちの天皇だ」といったという。

 皇極天皇は先代にならい蝦夷を大臣としたが、もっぱら政治を行ったのは蝦夷の子の入鹿だった。
その権勢は父の蝦夷よりも強かったという。その蘇我氏の専横が頂点に達したのが皇極天皇の時代だった。

 六四二年(皇極元)、蝦夷は自分の祖廟を葛城の高宮に建て、天子にしか許されていない「八佾(やつら)の舞」という行事を行った。
また、多くの人民を使って、蝦夷と入鹿のために双墓(大小二つの円墳を連接した古墳)を造らせた。
さらに、六四三年(皇極二)、蝦夷はひそかに紫の冠を入鹿に授け、大臣になぞらえた。

 その入鹿は、古人(ふるひとの)大兄(おおえの)皇子(みこ)(中大兄皇子の異母兄)を天皇にしようと企てた。
そして同年十一月、入鹿は皇位継承の有力候補であった山背大兄王を殺そうとして斑鳩に兵を送った。
山背大兄王は、いったんは逃げ延びたものの、再び斑鳩に戻り、子弟妃妾とともに自決した。

 そんな蘇我氏の専横が続くなか、日本の将来を憂えた二人の人物が知り合い、思いを一つにした。
一人は中大兄皇子であり、もう一人は中臣鎌子(のちの中臣鎌足)である。

 六四五年(皇極四)六月、中大兄皇子と鎌子は入鹿の暗殺を企て、入鹿をだまして太極殿に呼び出した。
そして、蘇我倉山田石川麻呂がにせの「三韓の上表文」を読んでいるときに、中大兄皇子と臣下の者が入鹿に襲いかかり、斬り殺した。

 このとき、計画では臣下の者が入鹿に襲いかかるはずだったが、恐れたじろいで動くことができなかった。
倉山田石川麻呂は臣下の者が現れないので全身から汗が吹き出て、声は乱れ手が震えた。
すると、それを見た入鹿が「なぜ震えているのか?」と問うと、倉山田石川麻呂は「天皇のおそばに近いので恐れ多くて汗が流れるのです」と答えたという。

 そして、ついにたまりかねた中大兄皇子が自ら剣を抜いて「やあ」と大声を発して斬りかかった。
 中大兄皇子と臣下の者に斬りつけられた入鹿は、天皇がいた御座の下に転げながらにじり寄って、「私にどんな罪があるのでしょうか」といった。

天皇は非常に驚き、中大兄皇子に「これはいったい何事か」と問うと、皇子は地に伏して「入鹿は皇室を滅ぼし、皇位を傾けようとしています」と訴えた。

 その後、中大兄皇子は法興寺に入り、蝦夷の攻撃に備えた。
また、蝦夷に味方しようとした軍勢に使者を送り、思いとどまらせた。
こうして、追い詰められた蝦夷は自害し、蘇我氏本宗家は滅んだ。


高森明勅 歴代天皇辞典 (PHP文庫)株式会社PHP研究所『第三十五代 皇極天皇(六四二~六四五年)

皇極天皇が即位されたのは、さまざまな火種を避けるためだったという説もある。
というのも、皇位継承の選択肢が三つもあったからだ。

  1. 聖徳太子の子である山背大兄王
  2. 舒明天皇の第一皇子である古人大兄皇子
  3. 舒明天皇と皇極天皇の子、中大兄皇子

皇極天皇の時代は、蘇我氏の専横が最もひどかった時であった。
蘇我入鹿が山背大兄王を明確な理由もなく、ただ私欲によって死に追いやった事件は、
反蘇我氏の勢力を刺激し、後に中大兄皇子に斬られる原因にもなったといえるだろう。

中大兄皇子と中臣鎌足が仕掛けた、蘇我入鹿の殺害と蘇我蝦夷を自害に追いやった事件は、
乙巳の変と呼ばれる。

乙巳の変から二日後、皇極天皇は天皇の位を譲られた。
これは皇室史上初の譲位であった。

自分の息子が目の前で人を斬ったショックもあったのだろうか。
時代が違うので考えはわからないが、言葉で言い表せない感情はあったと思われる。

第36代 孝徳天皇(六四五~六五五年)

蘇我蝦夷、入鹿の父子が殺されると、皇極天皇は皇位を子の中大兄皇子に譲ろうとした。
ところが、中大兄皇子は皇位を受けず、皇極天皇の弟の軽皇子を推薦した。
こうして軽皇子が即位した(孝徳天皇)。

 孝徳天皇は有名な「大化の改新」の時代の天皇であり、難波遷都、冠位の改定、評性の実施など、多くの実績を遺した。
しかし、政治の中心に立ち国政の改革を行ったのは、皇太子になった中大兄皇子と、その腹心で内臣になった中臣鎌足の二人である。

 新政権は発足するとすぐに飛鳥寺の大槻の下に軍神を集め、孝徳天皇への忠誠を誓わせた。

また、「大化」という年号を立てた。
大化とは「天子の広大な徳を人民に及ぼす」という意味の言葉であり、これが日本の年号の初めである。
さらに、十二月には都を大和から難波に遷した。

 六四六年(大化二)正月一日には、四か条からなる「改新の詔」が出されたが、正月一日に国政の改革に関わる詔が出されるのは異例のことだった。

それだけ改革にかける新政権の意気込みは熱かったのだろう。

 新政権は、従来の氏姓制度による皇室や豪族の支配に代わるものとして、中国の律令制度にならった中央集権的・官僚制的な支配体制をめざした

しかし、入鹿の暗殺から数か月の間に打ち出された急激な改革は、周囲に不満や反感を呼ぶことにもなった。

 六四五年(大化元)には、入鹿を後ろ盾としていた古人大兄皇子の反乱計画を密告する者が現れ、中大兄皇子は部下に古人大兄皇子を奇襲させ、古人大兄皇子とその一族を滅ぼした

 また、六四九年(大化五)には、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂による中大兄皇子殺害計画が密告され、追い詰められた石川麻呂が自殺し、妻子もあとを追った。だが、これは濡れ衣だったことがのちに明らかになっている。

 翌六五〇年(大化六)、穴戸国(長門国)が白い雉を奉ると、これを瑞祥(めでたいしるし)とし、年号を「白雉」に改元したが、これが日本最初の改元である。そして、この年の十二月、孝徳天皇は新しい宮である難波長柄豊碕宮にうつった。

 ところが、その後、孝徳天皇と中大兄皇子の間に溝が生じるようになり、中大兄皇子は都を大和に戻したいといい出した。天皇が反対すると、中大兄皇子は皇極上皇や弟の大海人皇子、さらには天皇の皇后(間人皇女)らを連れて大和へ戻ってしまった。

 翌六五四年(白雉五)、失意の孝徳天皇は病気になり、孤独のなかで息を引き取った。

高森明勅 歴代天皇辞典 (PHP文庫)株式会社PHP研究所『第三十五代 皇極天皇(六四二~六四五年)』

第37代 斉明天皇(六五五~六六一年)

 孝徳天皇が崩御したあとも、天皇の有力候補だった中大兄皇子は皇位を受けず、六五五年(斉明元)皇極上皇が重祚(退位した天皇が再び即位すること)した(斉明天皇)

これが重祚の初めての例である。

天皇は蘇我入鹿暗殺の舞台となった飛鳥板(あすかいた)蓋宮(ぶきのみや)で即位した。
ところが、その冬に宮殿が罹災し、一時、都を飛鳥川原宮に遷した。
その後、六五六年(斉明二)、後飛鳥岡本宮に遷した。

 斉明天皇の時代、有間皇子(孝徳天皇の皇子)が蘇我赤兄にそそのかされて謀反をはかり、捕らえられた。
有間皇子は天皇のいた紀伊に送られ、そこで中大兄皇子が尋問すると、「天と赤兄が知っているでしょう。私はまったくわかりません」と答え、藤白坂で処刑された。

外交では、六六〇年(斉明六)、新羅が唐と連合して百済を滅ぼした。

そして、筑紫の朝倉宮にうつったが、そこで崩御した。

高森明勅 歴代天皇辞典 (PHP文庫)株式会社PHP研究所『第三十五代 皇極天皇(六四二~六四五年)』

斉明天皇の時代、外交情勢が一変するような出来事が起きている。
六六〇年、百済が唐と新羅により滅ぼされたのである。

斉明天皇は百済の要人から百済再興のため助けを求められ、出兵を決めた。

六六一年には斉明天皇自らも同行し、都を出て九州まで移動し、
朝倉橘広庭宮を建て、出兵の本拠地を敷いた。

しかしながら、本拠地ができてすぐ、斉明天皇は崩御してしまう。
斉明天皇68歳の時であった。

出兵の指揮は中大兄皇子が代わりに執り、斉明天皇の葬式を現地で行い
さらには大和まで斉明天皇の遺体を送るなど、パニック状態であったと推察される。
戦はその後もつづき、後の白村江の戦いにつながる。

さて、皇極天皇/斉明天皇は、激動の時代の中、天皇として役割を果たされた方であった。
天皇が自ら戦の本陣に向かうなど、普通に考えたらできないことではないだろうか。

歴代天皇陛下それぞれ特色のあることが調べているとわかってきたので、
今後も、このブログで発信していきたい。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!

コメント

コメントする

目次
閉じる