鎌倉新仏教とは、平安時代末期頃から鎌倉時代にかけて誕生した日本の仏教のことをいう。”新”仏教と言われると現代人からすれば、「鎌倉時代は十分に古い時代だろう」と違和感を覚えるかもしれない。私自身も違和感を覚えた一人であった。では、何に対して”新”なのか?奈良時代の南都六宗(聖武天皇が牽引した)や平安時代に登場した天台・真言などの平安仏教は旧仏教などと表現されることがあり、これら旧仏教より後の時代(鎌倉時代)に誕生し、かつ思想的にも新しい仏教であったため、鎌倉新仏教と表現されるといわれている。旧仏教とは非常に端的にいうと、貴族階級に属するような位の高い人達が多くの年月をかけ、さらには厳しい修行を経て実践されるタイプの仏教である。これに対して、鎌倉新仏教は庶民に寄り添った仏教といえる。
ところで鎌倉新仏教は、流派ごと(浄土系、禅系、日蓮系)に分けて検討されることがほとんどであり、私自身も教科書で流派と創始者を習ったのを覚えている。ただ、鎌倉新仏教と一括りにしても、およそ100年以上にわたっているため、単に流派を分けるだけでは理解しきれないのではないだろうか。この点に関して、”鎌倉新仏教は時期ごとに三期に分けて考える”という回答を、黒田俊雄 先生が著書「日本中世の国家と宗教 岩波書店1975年」の顕密体制論で述べておられる。また、末木文美士 先生が著書「日本仏教史 思想史としてのアプローチ 新潮文庫1992年」にて、その内容を分かりやすくまとめられ、順を追って解説してくださっている。
三期とは、形成期・深化期・展開期の三つであり、それぞれ以下の時期である。
- 形成期:12世紀後半から13世紀始めの承久の乱(1221年)の約20年
- 深化期:承久の乱以後の執権政治の時期
- 展開期:13世紀以後から鎌倉時代のおわりまで
本記事では、末木文美士 先生の「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」を参考文献にして、鎌倉新仏教を三期に分けて、鎌倉新仏教について考えてみようと思う。
日本の仏教史を以下記事で外観しているので、興味がある方は読んでみてほしい。
形成期
鎌倉新仏教の先駆者たち(法然、栄西など)の登場
この時期は(12世紀後半から13世紀始の承久の乱(1221年)までの約20年)、鎌倉新仏教の先駆者ともいえる法然や栄西が活躍した。法然は浄土宗の開祖、栄西は臨済宗の開祖である。
法然は主著「選択本願念仏集」において、称名念仏(口で阿弥陀仏の名を唱えること)が唯一絶対であるとしたことが有名である。また、以下によれば法然は天台宗を学んだ経験があったことようである。
法然(一一三三 ー 一二一二)は美作(岡山県)の押領使の子として生まれたが、幼くして父が領地をめぐる争いで殺され、仏門に入った。叡山に学んだが、十八歳のときに叡山のなかの黒谷に隠棲し、叡空に学んだ。叡空は戒律と念仏をもって知られ、法然の基本的な素養はここで得られたと思われる。承安五年(安元元年・一一七五)、四十三歳のとき叡山を下って京の東山吉水で念仏布教に踏み出し、以後、九条兼実などの支持者をちゃくちゃくと獲得していった。
「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」末木文美士 新潮文庫
一方、栄西は神官の家出身であるが、やはり天台宗ではじめに学んでいるようである。
他方、栄西(一一四一 ー 一二一五)は、備中(岡山県)の神官の家出身。やはり叡山に学んだが、仁安三年(一一六八)入宋。半年の滞在で帰国したが、ふたたび入宋してインドにまで渡ろうと志し、九州に渡って待機。法然が叡山を下ったのと同じ年のことである。文治三年(一一八七)、ようやく二度目の入宋。臨済宗黄龍派の虚庵懐敞の許で禅を学んだことが大きな転機となり、建久二年(一一九一)帰国後、まず九州に禅をひろめ、建久五年(一一九四)にはいよいよ上京して本格的な活動に踏み込んでいった。
「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」末木文美士 新潮文庫
念仏を唱えることや、禅などの実践は、法然や栄西が登場して急に始まったというわけではない。聖(ひじり)と呼ばれる民間の僧たちも実践していた。形成期の時代には法然や栄西の布教に加えて、旧仏教側の堕落が相まってどんどん信仰が広まっていったようである。さらに聖たちも法然や栄西の教えに共感していき、教団として拡大していった。以下、聖的な僧の一例として、大日房能忍(だいにちぼうのうにん)の達磨宗(だるましゅう)がある。
禅に関しては栄西に先立って大日房能忍の達磨宗の活動が注目される。能忍は特定の師を持たず、独りで達磨(摩)の禅法を工夫し、ひろめていた。そして、文治五年(一一八九)、弟子を育王山の拙菴徳光の許に送って印可を得ている。やはり一種の聖的な性格をもった禅者であるといえる。栄西は能忍に対して厳しい批判的な態度をとっている。これは、一つには自ら入宋して本物の禅を伝えているという自信によるものであるが、またもう一つには達磨宗が当時危険視され、栄西の禅まで禁止されるにいたったため、それと峻別する必要があったからだと思われる。
「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」末木文美士 新潮文庫
ちなみに栄西は自身の禅まで禁止されるに至ったため、栄西の主著である「興禅五国論」の中で反論している。
形成期の旧仏教の僧
旧仏教の法相宗 興福寺の僧である貞慶は、法然の浄土念仏を非難を激しく批判したことで有名である。貞慶は生まれてすぐに親を亡くし、幼くして出家した。興福寺で唯識を学んだとおもえば翌年には笠置寺で遁世を学んでいる。一見すると法然の生い立ちに非常に近しいが、貞慶は南都仏教を捨てず、一方の法然は天台から離れ新たな道を進んだのである。
貞慶が「興福寺奏上」を出し、公然と法然を非難するような声が出始め、法然は流罪に処されている。なぜ非難されてしまったのだろうか。それは以下のように戒律無視(たとえば浄土宗であれば念仏以外の軽視)が原因であったと考えられる。
こうした新宗に対する非難のなかで、両者に共通しているのは戒律無視が挙げられている点である。戒律無視は当時の一般的な傾向で、むしろそのなかにあって法然も栄西も戒律厳守をもって知られていただけに皮肉であるが、能忍の禅や法然門下の動向としては、禅や念仏の絶対視から戒律無視を公然と主張する傾向があったとみられー 法然門下の親鸞もその典型であるー、それが格好の攻撃目標となったものと思われる。そこには本覚思想の現実肯定的な面と共通なところがみられ、また聖仏教の特性を示している。
「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」末木文美士 新潮文庫
法然や栄西はしばしば矛盾を生じていると指摘がある。たとえば法然の場合、称名念仏が唯一絶対であるとしながら、昔からいわれるような戒律を厳守する考えである。一方で栄西の場合、密教や律などの要素を並修するような部分がみられ、禅のみの立場からみるとやや不徹底とみられる。しかしながら、この時期は鎌倉仏教の形成期であって、矛盾というよりも過渡的な様子をあらわしているとも考えられるのである。
深化期
この時期(承久の乱以後の執権政治の時期)は、割と政治的には平和な時期であるが、親鸞や道元が活躍した。親鸞は浄土真宗の開祖で主著は「教行信証」、道元は曹洞宗の開祖である。この二人によって、思想的に深められていくことになる。
親鸞や道元などによる、思想的な成熟
親鸞も法然や栄西と同様にまずは天台宗で学んでいる。さらに親鸞は法然の門下に入っている。親鸞の生い立ちは以下の通りである。
親鸞(一一七三 ー 一二六二)は下級貴族日野有範の子。はじめ叡山に学んだが、二十九歳のとき、法然の門に投じ、法然の流罪の際には同時に越後に流されている。許されても都に帰らず、かえって関東に向かい、ここで布教に努め、晩年は都にもどって九十歳の高齢で没した。主著『教行信証』は関東在住中、元仁元年(一二二四)頃書かれたが、晩年まで手を加え、また、晩年の八十歳代になって精力的な著作活動を行った。
「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」末木文美士 新潮文庫
さらに、道元もはじめは天台宗で学んでいる。このことから、鎌倉新仏教は天台宗の考え方がかなり影響しているのではないかと思えてならない。道元の生い立ちについては以下の通りである。
道元(一二〇〇 ー 一二五三)は当時の権力者久我通親の子。幼くして両親を亡くして叡山に入ったが、のち山を下って栄西の高弟、建仁寺の明全につき、貞応二年(一二二三)明全とともに入宋。天童山で如浄(一一六三 ー 一二二八)に出会って「身心脱落」を経験。安貞元年(一二二七)帰国。帰国後は最初は都で禅をひろめたが、寛元元年(一二四三)越前(福井県)に移り、永平寺を開いて坐禅と門人の指導に努めた。
「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」末木文美士 新潮文庫
称名念仏など、思想的な矛盾の克服をみせる親鸞と道元
法然の場合、称名念仏が唯一絶対であるとしながら、一方で戒律を厳守する立場にあった。これは法然の門弟からすれば矛盾することであり、念仏が絶対であれば他はないがしろにしてもよいのではないか、という考えに至った人も多かったのではと推察される。実際に法然門下では「一念義」という一度念仏を唱えれば往生できるという思想が広まっていたようである。
この矛盾に対して、法然の門下にも所属した親鸞は、以下のように解決策を見出した。それは信の念仏である。
親鸞は、信の一念で往生が決定し、往生はそのまま悟りの世界にいたることであるとした。そして、現世では悟りへと定まった位(正定聚)に達すると考えた。この点、現実をそのまま悟りの世界とする本覚思想に近いが、それを来世にもってゆくところに一戦が引かれ、かつ、信を得たうえでなお念仏するところに実践性が確保されるのである。
「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」末木文美士 新潮文庫
一方で道元は、栄西と同様に禅僧である。栄西は他宗を並列して取り入れていたことから、よく言えば多面的であるものの、悪く言えば考えが定まっていないとの批判も多かった。道元はそうした禅僧の課題を以下のように克服する方向性を見出した。すなわちそれは、坐禅の修行の過程そのものが悟りであるという考え方である。
道元では修証一如というところに解決が求められる。すなわち、修行の結果として悟り(証)に達するのではなく、修行(坐禅)そのものが悟りだというのである。ここから只管打座(ひたすら坐禅のみ)の立場がとられることになる。悟りが手近にあるという点で本覚思想に近いが、あくまでそれが坐禅の実践のなかに求められるところに一線が画されている。
「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」末木文美士 新潮文庫
展開期
この時期(13世紀以後から鎌倉時代のおわりまで)は、激動の時代であったといえるだろう。元が日本に対して国書を送り付け、それでも強硬な態度であった日本に対して、二度にわたって元の大軍が攻め込んできた、いわゆる元寇があった時期である。
元寇などを受けて人々の間で、社会不安や国家意識が高まったと言われている。また、これまで栄西や道元は、宋に仏教を学びに出ていたが、元の台頭でそれが出来ない時期であった。
元寇などの国難、社会不安や国家意識による思想的な展開
さて、展開期は激動の時代であるが、そんな時代に活躍したのは、日蓮である。日蓮宗の開祖であり、主著は「開目抄」、「観心本尊抄」などである。日蓮のエピソードとして有名なのは、立正安国論で、元寇を予言してたかのような記載があるところである。
日蓮(一二二二 ー 一二八二)は、安房(千葉県)の生まれ。出家して、鎌倉・叡山に学び、法華信仰をつよめる。当時、飢饉や疫病がつづいて、社会不安を招いていたが、日蓮はその原因を、正法(正しい教え)である『法華経』を捨てて念仏などの邪法に走ったためであるとして、もし正法に依らなければ、他国の侵略など、より大きな災いが起こるであろうと訴えた。これが『立正安国論』で、文応元年(一二六〇)、前執権北条時頼に進上したが、受け入れられず、かえって伊豆流罪などの迫害を受けることとなった。元寇はまさにこの予言の実現と考えられ、日蓮の自信を深めることになったのである。
「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」末木文美士 新潮文庫
日蓮は法華経こそ正法(正しい教え)であると考えていたことから、日蓮からすれば、法然や親鸞といった念仏は特に批判すべき対象であった。
日蓮の法華経観の特徴や、天台の本覚思想との関連性について、末木先生は以下のように述べている。
日蓮の『法華経』観の特徴は、本門を中心に置く点にみられる。『法華経』は大きく迹門(前半部)と本門(後半部)に分けられ、迹門では一乗(唯一の真理)による仏教の統一を、本門では歴史上の釈尊を超えた永遠の釈尊を説く、というのが天台の見方であるが、中国の天台や日本の最澄は迹門をも重視していた。それに対し、日蓮は本門を絶対視し、かつ永遠の釈尊の功徳は「妙本蓮華教」という経題(題目)に集約されているので、その経題を受持すれば、絶対の世界が体得されるというのである。
「日本仏教史 思想史としてのアプローチ」末木文美士 新潮文庫
じつはこうした本門重視の立場、および経題の受持の思想は天台の本覚思想のなかでも形成されてきており、この点、日蓮もその流れに立つ一面をもっている。
日蓮がなぜ法華経の本門を絶対視するようになったのだろうか。それは天台の本覚思想の影響を少なからず受けているとの見方が強い。
また一方で、本門のなかでは菩薩が様々な苦難を乗り越えて法華経をひろめていく姿が表現されているが、その苦難を乗り越える姿を、日蓮自身が迫害されたことと重ねたのではないか、という見方もある。激動の時代の中にあって、仏教観の模索を真剣に考えた結果であったことは間違いない。
おわりに
本記事では、鎌倉新仏教を三期にわけて検討することを紹介し、さらに時代背景とともにその当時の仏教観を交えながら、鎌倉新仏教を興隆した人僧たちのエピソードをみてみた。
鎌倉新仏教についてはさらに研究がすすめられ、新しい見方も出てくると考えられる。興味深い考察を見つけた時にはそれを共有できればと考えている。
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