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大航海時代、なぜ日本はヨーロッパ列強に侵略されなかったのか

ヨーロッパの国々は15世紀中ごろから17世紀に積極的に世界へ進出していた。
いわゆる「大航海時代」である。
世界進出の目的のひとつはオスマン帝国の関税から逃れ、香辛料などを直接手に入れるためだった。

大航海時代に活躍した探検家たちは航海の資金を王族やキリスト教団から得ていた。
大航海時代にはアフリカ、南北アメリカ、アジアの大半がヨーロッパ列強の植民地となった。

本記事では大航海時代になぜ日本は植民地にならずにすんだのか、当時の日本について調べていきたい。
参考書籍は下記のとおり。

目次

大航海時代の日本

大航海時代の初期に活躍した国はスペインとポルトガルである。
スペインとポルトガルの宗教はキリスト教の教派カトリック
カトリックはローマ教皇をトップとした階級制の組織となっている。

カトリックの布教と貿易圏の拡大を図り、ポルトガルとスペインは新航路を開拓していった。
しかし、両国は到着した先で占領地をめぐり、争いを起こしていた。
そのため、ポルトガル国王とスペイン国王は世界を二分割し、それぞれ自国領土とする条約を締結した。その条約とは1494年のトルデシリャス条約と1529年のサラゴサ条約である。

スペインとポルトガルの世界征服事業は、貿易と支配によって利益を獲得するというだけではなく、カトリックの布教によって非キリスト教地帯を文明化するという正義の事業だった。力によって世界を支配しようとする独善的な植民地化事業も、「神の国」をつくるという大義によって正当化されていた

平川新(2018).戦国日本と大航海時代秀吉・家康・政宗の外交戦略(中公新書)(p.34).中央口論新社.Kindle版.

地図をみるとサラゴサ条約において設定した境界(東経144度)付近に日本が位置していることがわかる。フィリピンはサラゴサ条約によればポルトガル領になるが、スペインが先取権を主張し別地域の交換条件によりスペイン領となった。フィリピンという国名は当時のスペイン皇太子フェリペにちなんでいる。

平川新(2018). 戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略 (中公新書) (p.23). 中央公論新社. をもとに作図

さてスペインとポルトガルが勝手に世界を二分割していた頃、日本はどんな時代だろうか。
1336年に始まった室町幕府は1573年に15代将軍の足利義昭が織田信長に追放され終わる。
その後、1582年に本能寺で自害した織田信長の後を継ぎ豊臣秀吉が日本を統一する。まさに戦国時代まっただなかである。

カトリックの宣教師たちもこのサラゴサ条約に従いながら、ポルトガルはイエズス会、スペインはフランシスコ会などが中心となってアジアでの布教活動を強力に展開

平川新(2018).戦国日本と大航海時代秀吉・家康・政宗の外交戦略(中公新書)(p.31).中央口論新社.Kindle版.

1543年に倭寇が所有する船に乗ったポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲が日本に伝わった。ポルトガル系イエズス会のフランシスコ・ザビエルが来日したのは1549年である。一方、スペイン人が日本にやってきたのは1584年のこと。スペイン人は1571年にフィリピンのマニラを占領したことにより、やがてフランスシスコ会宣教師たちもマニラから渡航し、布教活動が始まった。

この時代、多くの日本人が明や東南アジアに渡航していた。
日本人町は東南アジアの各地にあり、貿易商人や傭兵として海外に進出していたようだ。
奴隷として売り飛ばされた人たちも多かったらしい。
そのため、インドや東南アジアでの宣教師たちや探検家の行為が日本に伝わっていた可能性は高い。

実際に議論されていた日本征服論

ポルトガル系イエズス会の宣教師たちが残したアジア征服に関する書簡がある。
ポルトガル領インドとされた地域(インド・明・東南アジア・日本)の特別職に就いていたアレッサンドロ・ヴァリニャーノと、日本布教区の責任者であるガスパル・コエリョが主に日本のことを記録している。

最初は、第一回目の日本巡察を終えたヴァリニャーノがマカオからフィリピン総督に宛てた一五八二年の書簡である。

日本の国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服は困難だ、とある。織田信長と大名たちとの実際の戦争状態を目の当たりにして、その戦闘力の高さを認識したためだろうか。
日本征服については慎重に進めなければならないとしている。

「しかしながら、シナにおいて陛下(フィリピン総督)がおこないたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるであろう。それ故に日本の地を極めて重視する必要がある」。

積極的な攻勢をかけることを主張したのはイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョであった。

彼は一五八五年にイエズス会のフィリピン布教長アントニオ・セデーニョに宛てて次のように書いた。

日本に早急に兵隊・弾薬・大砲、数隻のフラガータ船を派遣してほしい、キリスト教徒の大名を支援し、服従しようとしない敵に脅威を与えるためである、これで諸侯たちの改宗が進むだろう、と。

平川新(2018).戦国日本と大航海時代秀吉・家康・政宗の外交戦略(中公新書)(pp.43-44).中央口論新社.Kindle版.

宣教師たちは改宗した大名たちがスペインの他国への侵略に手を貸してくれると信じており、実際に書簡が残されている。布教と他国侵略が一体だったことがうかがえる。

信長・秀吉の世界観とはどのようなものだった?

1581年、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは信長に謁見した。その際に、信長は世界地図を見ながら彼が通ってきた海路を説明させたらしい。信長はポルトガル国王が地球の半分を支配する権力があることを聞いていただろう。

信長は安土城下に修道院を置くことを許可し、帰国するヴァリニャーノに天皇の高覧も受けたほどの「安土城之図」屏風絵を贈り下記のように述べている。

「伴天連殿(ヴァリニャーノのこと)が予に会うためにはるばる遠方から訪ね来て、当市に長らく滞在し、今や帰途につこうとするに当り、予の思い出となるものを提供したいと思うが、予が何にも増して気に入っているかの屏風を贈与したい」(『完訳フロイス日本史』3)ということであった。

平川新.戦国日本と大航海時代秀吉・家康・政宗の外交戦略(中公新書)(p.62).中央口論新社.Kindle版.

信長と秀吉がイエズス会による日本侵略を話題にしていたと、イエズス会士が書いた書簡に残されている。その際、日本侵略について懸念していたのは秀吉のほうで、信長は楽観視していたようだ。信長はそのような遠方から兵がくるわけがない、と言っていた。

1582年に本能寺で自害した織田信長の後を継ぎ豊臣秀吉が日本を統一する。

1586年、ガスパル・コエリョは大阪城で秀吉に謁見した。その際に秀吉は明国出兵の計画を語ったことが記録されており、ポルトガルには大型帆船2隻と優秀な航海士を依頼し提供の合意を得ていた。会見の際に、コエリョは九州のキリシタン大名をすべて秀吉側に立たせることも約束したらしい。そしてフスタ船という大砲を積んだ軍船を秀吉に見せた。その軍船はポルトガル人とイエズス会が日本で造らせたものだった。これは秀吉にイエズス会の力を証明することとなってしまった。

コエリョと秀吉の会見の6年前、1580年にキリシタン大名である大村純忠は領地をイエズス会に寄進していた。1584年には有馬晴信も、領地の浦上をイエズス会に寄進していた。その間、領内の社寺が破壊される事件が起きていた。

1587年に大村純忠が亡くなりその1か月後に豊臣秀吉は伴天連追放令を発令し、イエズス会領となっていた長崎、茂木、浦上をとりあげ直轄領とした。

伴天連追放令に関する「十八日覚」では、日本人奴隷の売買を厳しく批判し、禁止を命じている。イエズス会宣教師が奴隷貿易に関与していたことは既存研究でも明らかにされている。秀吉の伴天連追放令は宗教と一体化した奴隷貿易を批判した性質のものと考察している研究もある。

ルイス・フロイスの一五八七年一〇月二日度島発書翰に「ある部分において彼ら(宣教師たち)は一向宗のように見えるが、しかし予はより危険であり有害だと考える…」(Jap.Sin.51 f.52)と記されている

神田 千里(2011)東洋大学文学部紀要. 史学科篇 37.pp65-110

秀吉は伴天連追放令を発令したが、伴天連追放令は庶民の信仰の自由を縛るものではなかった。
宣教師の追放と権力を持つ領主層の信仰を抑制しただけであった。
コエリョや「日本史」の筆者で有名なルイス・フロイスは1589年、1590年に援軍派遣を国王や司教などに要請していたが、実際に派兵されることはなかった。

秀吉が朝鮮出兵のために肥前国名護屋に築城を命じたのは1591年8月ですが、原田孫七郎に託してフィリピン総督に書簡を送り服従を要求したのは、その翌月のことでした。その一節には、「これ旗を倒して予に服従すべき時なり。もし服従すること遅延せば、予は速やかに罰を加ふべし。後悔することなかれ」とあります。秀吉からのこうした要求に対して、フィリピン総督は慌ててマニラに戒厳令を布き、スペイン国王にメキシコからの援軍派遣を要請するなど、非常事態を宣言しています。

朝鮮やフィリピンに対するこうした動きと併行して秀吉は、1591年7月、ポルトガル領インド副王に、明征服計画を必ず成しとげるという話と、日本での布教禁止を継げます。

ところで秀吉の攻勢を受けたフィリピン=スペイン側は、日本に対して相当強い恐怖感を抱いています。(中略)マニラ征服を求めている「薩摩の者」=島津氏に秀吉が許可を与えれば彼らは島伝いに来襲するだろうともありますので、日本情報をかなり詳しく把握していたようです。

そうならないためには太閤に贈り物をするように、ともあります。ちょうど日本軍が朝鮮に出兵しているときで、「私は朝鮮との和平が成らないように節に臨む。(中略)さすればマニラは平和なのだから」とも記されています。日本の眼が朝鮮に向いているうちはマニラは安心だ、ということなのです。秀吉が朝鮮に再出兵する前のことですが、ヘスースはマニラに対して、「日本がマニラを攻撃することはありえないというのは事情を知らぬ人の言葉」であり、非常に切迫した状態であると警告しています。

1597年7月、秀吉がフィリピン総督に出した書簡です。(『異国往復書簡集』)その前年、土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の積み荷を没収されたことに抗議したフィリピン総督に対する返書なのですが、次のようなことが述べられています。

「(略)その国においては布教は外国を征服する策略または欺瞞なることを聞きたればなり。(略)予は思うに卿がこの方法を用いて其の国の古来の君主を追い出し、ついにみずから新しき君主となりたるがごとく、卿はまた貴国の教えをもって我が教えを破壊し、日本の国を占領せんと企画せるならん。是ゆえに予は前に述べたる所に対して憤り怒を懐ける時(略)」(同八〇頁)

ここに述べられていることは、スペインは布教を足がかりに外国を征服しているが、フィリピンでもこの方法によって君主を追放し、みずからが君主になっているではないか、同様の方法で日本を占領しようとしているに違いない、怒りを抑えることができない、という強いスペイン批判です。

要するに秀吉はスペインに対して、布教を隠れ蓑にした日本侵略は絶対に許さないと警告したのでした。

平川新(2009)前近代の外交と国家:国家の役割を考える 近世史サマーフォーラムの記録2009巻pp1-29

豊臣秀吉は世界中を支配していたスペインのやり方を批判し、日本は抗うことを宣言している。強気外交である。そう言えるだけの軍事力を有していた証でもある。

おわりに

大航海時代になぜ日本は植民地にならずにすんだのか、それは天下統一を果たしつつあった戦国大名に守られたから、であった。さて次回は秀吉の時代から家康の時代に日本の外交はどのように移り変わっていったのか、調べてみたい。

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