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大和を通さない道—安曇氏の姫川ルートと「環日本海経済圏」の物流戦略

目次

1.近畿中心史観への問い直し

山に祀られた「海の神」のパラドックス

長野県安曇野市。地域の総鎮守である穂高神社に祀られているのは、海の神(ワタツミ)を祀る「安曇(あずみ)氏」である。古事記では、イザナギノミコトが黄泉の国から帰ってきたときに、「禊(みそぎ)」でワタツミ三神(底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神)を含む神々が誕生する。このとき住吉大社(大阪府住吉区)に祀られる墨江之三前大神(底箇之男命・中箇之男命・上箇之男命)も一緒に生まれている。

穂高神社 著者撮影(2008年1月4日)

安曇氏は、北部九州の志賀島をルーツとし、卓越した航海術で知られる典型的な「海の民」である。
本来であれば玄界灘や瀬戸内の潮流のなかで生きるはずの彼らが、なぜ海から遠く離れた日本列島の屋根、信州の内陸部に拠点を築いたのか。

その謎を解くため、私は能登半島の入り口から姫川を遡り、信濃の安曇野まで、実際に彼らの足跡を辿ってみた。

従来の通説では、この不可解な移動を「敗走」として説明することが多かった。
白村江の戦いでの敗北、あるいは大和王権との政争に敗れ、中央から追われるようにして山間部へ逃げ込んだという解釈である。
しかし、この「敗者ゆえの逃避行」というストーリーには、決定的な視点が欠けている。それは、当時の日本列島が単一の権力(大和)によって支配されていたわけではなく、複数の経済圏が並存していたという地政学的なリアリティだ。

「逃げた」のではなく「選んだ」

本記事が提示するのは、安曇氏の信濃進出を、国家形成期における高度な「物流戦略(ロジスティクス)」として再定義する仮説である。

あえて危険な姫川(フォッサマグナ)を遡上し、日本海と内陸部(中部高地・関東)を直結させる「バイパス」を構築しようとしていたのではないか。それは、当時の政治的中心地である大和(近畿)を通さずに、大陸(朝鮮半島・中国)からの先進文物を直接内陸へ供給する、独自の「環日本海経済圏」の確立を意味する。

近年の考古学的調査、特に糸魚川産翡翠(ヒスイ)の広域流通や、北陸から信濃へ続く積石塚古墳の分布は、大和王権の支配網とは明らかに異なる「別の動脈」が存在したことを物語る。安曇氏は、単なる移住者としてではなく、この壮大な流通ネットワークを設計・運用する「ロジスティクスのプロフェッショナル」として、信濃の地を選んだ可能性はないだろうか。

本記事では、地質学・考古学・歴史地理学の知見を横断しながら、安曇氏が姫川ルートに託した戦略の全貌を明らかにする。それは「近畿中心史観」というレンズを外し、日本海側を表玄関として機能していた古代日本の多極的な姿を復元する試みでもある。参考にした書籍、文献は記事の最後に掲載する。

2.翡翠(ヒスイ)の道と地質学的必然性

地質学が明かす「糸魚川」の独占的価値

「翡翠ネットワーク」。糸魚川産翡翠(硬玉:ジェダイト)は地質学的希少性が高い。

日本列島において宝石質の硬玉翡翠が産出するのは、新潟県糸魚川市の小滝川・青海川流域などごく限られた地域のみだ。これは北米プレートとユーラシアプレートが衝突するフォッサマグナ西縁の変成岩帯において、地下深部で形成された蛇紋岩とともに翡翠輝石岩が地表へ隆起した結果である。古代世界において特定の地質資源がこれほど狭い範囲に限定され、かつ広域に流通した例は稀だ。

驚くべきは、その流通範囲である。
最新の同位体分析や蛍光X線分析によって、北海道の遺跡から沖縄の貝塚、さらには朝鮮半島の遺跡(おもに新羅の地)から出土する翡翠の勾玉のほぼ全てが「糸魚川産」であることが科学的に証明されている。原石はひとりでに海を渡らない。誰かが意図を持って運び、加工し、流通させたのだ。大和王権による列島支配が確立するはるか以前に、日本海側にはこの広大な物流網を維持する「海の運び手」が存在した。

神話の経済的解釈:出雲と糸魚川のM&A

『古事記』に記された有名な神話がある。
出雲の神・大国主命(オオクニヌシ)が高志国(コシノクニ)の沼河比売(ヌナカワヒメ)に求婚する「八千矛神(ヤチホコノカミ)の歌」だ。

「高志の国に 賢し女(さかしめ)をありと聞かして 麗し女(くわしめ)をありと聞こして…」

文学的にはロマンチックな求婚譚として語られるこの物語を、歴史地理学および経済人類学の視点で読み解くと「資源貿易協定」のメタファーが浮かび上がる。出雲は当時、日本海側最大の政治・宗教的拠点であり、玉作(たまつくり)をはじめとする高度な加工技術を持っていた。しかし原材料である「硬玉翡翠」は自国では産出しない。一方の糸魚川(高志)は、世界有数の資源を持っているが、それを広域に流通させる販売網やブランド力が出雲ほどではなかった可能性がある。

大国主の求婚とは、出雲勢力による糸魚川翡翠産地へのアクセス権要求であり、沼河比売の受諾は、糸魚川地域集団による出雲の広域流通網への参画合意である。これは現代で言うところの「M&A(合併・買収)」あるいは強力な業務提携ではないだろうか。

『先代旧事本紀』が語る血脈と物流ルート

では、この提携によって生まれた「果実」はどこへ向かったのか。
ここで重要になるのが、物部氏の伝承を色濃く残す史料『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』の記述である。

『古事記』では、国譲りの段で大和の使者(タケミナカタ)に敗れ、諏訪まで「逃げた」とされる建御名方神(タケミナカタノカミ)。
しかし『先代旧事本紀』は、彼について決定的な出自を記している。

建御名方神は、大国主神が高志国の沼河比売を娶って生ませた子である

タケミナカタは、出雲(流通・加工のハブ)と糸魚川(資源の独占地)という二大勢力の血を引く、正統な後継者。彼が糸魚川を流れる「姫川」を遡り、その源流に近い諏訪・安曇野の地へ入った行動を、単なる「敗走」とみることができるのだろうか。

「出雲」×「糸魚川」=「諏訪」。
この数式は、安曇氏らが担った物流ネットワークが、沿岸部だけでなく内陸深くまで計画的に張り巡らされていたことを示唆しているのではないだろうか。タケミナカタの諏訪鎮座は、事業拡大の証拠と考えると、糸魚川から姫川沿いに南下するルートは、母・沼河比売の本拠地から内陸へ直結する「翡翠の道(ジェード・ロード)」そのものである。彼は敵に追われて無計画に逃げ込んだのではなく、両親が築いた日本海側の強固な経済基盤を背景に、母方のルートを使って内陸の要衝(信濃)へ進出し、新たな物流拠点を開設したと見えてこないだろうか。

3.考古学的証拠が示す「高句麗ハイウェイ」

点と線を結ぶ遺物:能登と信濃のミッシングリンク

神話や伝承だけでなく、地面の下には「動かぬ証拠」が眠っている。 安曇氏が拓いた姫川ルートが、単なるローカルな交易路ではなく、大陸(朝鮮半島)と直結した「国際ハイウェイ」であったことを示す決定的な遺構が存在する。

その起点は、日本海に大きく突き出した能登半島にある。 石川県七尾市の能登島に位置する「須曽蝦夷穴(すそえぞあな)古墳」だ。 この古墳は、日本の一般的な古墳(土を盛る墳丘墓)とは異なり、石を積み上げて築く「積石塚(つみいしづか)」の要素を持つ。 さらに特筆すべきは、埋葬施設(横穴式石室)の天井構造が「ドーム状(持ち送り式)」になっている点だ。

須曽蝦夷穴(すそえぞあな)古墳_著者撮影(2008年3月21日)

この特殊な構造は、当時の大和(近畿)にはほとんど見られない。 そのルーツは明らかに海の向こう、朝鮮半島北部の鴨緑江流域や平壌周辺、すなわち「高句麗(コグリョ)」の積石塚にある。 能登は、対馬海流に乗って北上する船、あるいはリマン海流に乗って南下する船にとって絶好のランドマークであり、高句麗からの渡来人が最初に足を踏み入れる「玄関口」だったのだ。

内陸に出現した500基の積石塚と「諏訪のターミナル」

能登を玄関口として、そのルートの終着点には何があるのか。 驚くべきことに、海から遠く離れた内陸の長野県長野市松代町に、日本最大級の積石塚群集地が存在する。 「大室(おおむろ)古墳群」である。

ここには約500基もの古墳が密集しており、その多くが渡来系の特徴を持つ積石塚だ。 なぜ、山に囲まれた信濃の盆地に、これほど大量の「石の墓」が必要だったのか。 それは、このルートを通って移動したのが、少数の使節団や商人だけではなかったことを意味する。 数百、数千という規模の「渡来系集団」が、能登から姫川・千曲川を遡り、信濃へ移住(入植)した物理的な痕跡なのだ。

そして、このルートのさらに奥、諏訪湖のほとりこそが、前章で触れたタケミナカタ(出雲と糸魚川の御子)が鎮座する地である。 安曇氏とタケミナカタは、能登から信濃へと続くこの「高句麗ハイウェイ」の終着点に巨大な物流ターミナルを築いたのである。

「馬の国・信濃」の夜明け

安曇氏がこのルートを使って内陸へ運んだもの。 それは翡翠という「威信財」だけではない。 最も価値があったのは「生きた技術(テクノロジー)」だ。

大室古墳群の周辺からは、多数の馬具や馬の骨が出土している。 日本在来馬(木曽馬など)のルーツには諸説あるが、確実なのは、馬という動物とそれを飼育する高度な技術が、5世紀頃に大陸から持ち込まれたという事実だ。 積石塚を作った人々は、同時に優れた「馬飼(うまかい)」の技術者集団でもあった。

安曇氏は、能登という「港」と、信濃という広大な「牧(生産拠点)」を、姫川というパイプラインで直結した。 彼らがもたらした馬産技術こそが、後に「信濃といえば名馬(木曽駒)」と言わしめるブランドの源流となったのである。 大和王権が瀬戸内海経由で百済の文化を取り入れたのに対し、安曇氏は日本海ルートを使って高句麗・新羅系の技術と種馬を内陸へ招き入れた。 この「産業そのものの移植」こそが、安曇氏の物流戦略の真髄であり、彼らが信濃に強固な基盤を築けた理由に他ならない。

姫川ルート選択のロジスティクス戦略

難所こそが最大の「資産」である

なぜ、安曇氏はこれほど険しいルートを選んだのか。 新潟県糸魚川市から長野県松本市へと至る、のちの塩の道(千国街道)は、フォッサマグナの断層帯を流れる姫川の渓谷沿いを行く。 急流と断崖が続くこの道は、古代において命がけの難所であったはずだ。

しかし、ロジスティクスの視点で見れば、この「難所」こそが最大の資産となる。 第一に「セキュリティ」だ。 容易に人が通れない地形は、外部勢力、特に勢力拡大を急ぐ大和王権軍の侵入を阻む天然の要塞(防壁)として機能する。 このルートを熟知し、特殊な操船技術や山越えのノウハウを持つ者だけが、独占的に物資を運ぶことができるのだ。

第二に「経済合理性」である。 地図上で日本海から本州中央部(信濃)への距離を測ると、姫川ルートは圧倒的な「最短距離」であることに気づく。 リスクを冒してでも、この直結ルートを確保することで、輸送コストと時間を大幅に短縮できる。 「ハイリスク・ハイリターン」を計算できる者だけが選ぶ道、それが姫川だった。

古来の「黒曜石インフラ」を再起動する

さらに、安曇氏が信濃(諏訪・安曇野)を目指した決定的な理由がある。 それは、彼らがゼロから道を作ったわけではない、という点だ。

信濃の和田峠周辺は、旧石器・縄文時代から数千年にわたり、日本全国へ「黒曜石」を供給する巨大な資源センターであった。 つまり、この地には太古より、各地へ物資を運ぶための「道」と、人とモノが集まる「ハブ(結節点)」としての機能が既に備わっていたのである。

安曇氏の戦略は、言わばこの「休眠資産の買収」だ。 かつて黒曜石を運んでいた太古の流通ネットワークを掌中に収め、そのパイプラインに乗せる商材を「石(黒曜石)」から、当時の最新戦略物資である「鉄」「馬」「翡翠」へとアップデートしたのである。 諏訪大社の祭祀に縄文的な要素が色濃く残るのは、彼らが先住民のインフラと文化を否定せず、巧みに融合(習合)させた証左と言えるだろう。

大和に依存しない「第2の補給線」

当時の大和王権は、瀬戸内海を経由して朝鮮半島南部(百済・伽耶)と結びついていた。 対して、安曇氏が構築した「日本海-姫川-信濃ルート」は、高句麗・新羅と繋がる独自のパイプラインである。

瀬戸内海が政情不安や海賊によって遮断されたとしても、日本海ルートが生きていれば、大陸からの先進文物の供給は途絶えない。 安曇氏は、大和王権に従属するのではなく、この決定的な「第2の補給線」を握ることで、中央政権に対しても強い交渉力を維持し続けたのではないだろうか。

結論:大和を迂回する第2の国土軸

安曇氏の正体は「古代の総合商社」だった?

ここまで見てきた地質学的、考古学的、そして歴史地理学的な証拠は、一つの明確な事実を指し示している。 安曇氏の信濃進出は、場当たり的な「逃避」などでは決してなかったということだ。

彼らは、糸魚川の翡翠という「資源」を押さえ、能登という「港」を確保し、それらを内陸の消費地や生産拠点(信濃)へ流すための「物流ルート」を設計した。 その動きは、現代で言えば資源開発から物流、販売までを一貫して手がける「総合商社」のビジネスモデルそのものである。 海神を祀る彼らが山の中に拠点を築いたのは、そこが日本海経済圏と東国・内陸経済圏を接続する、最も戦略的なジャンクション(結節点)だったからに他ならない。

失われた「日本海の表玄関」の記憶

本記事から浮かび上がる古代日本の姿は、大和(近畿)だけが輝いていた一極集中の世界ではない。 日本海側には、朝鮮半島や大陸と直結し、独自の文化と技術を育むもうひとつの強力な「国土軸」が存在した。 安曇氏が拓いた姫川ルートは、その動脈として機能し、日本の国づくりに不可欠な鉄や馬、そして先進的な文化を供給し続けたのである。

長野県安曇野市。 今、私たちが目にするその美しい田園風景の背後には、かつて荒波を越え、激流を遡り、大陸と日本をダイナミックに結びつけた「海の民」の壮大な戦略が眠っている。 穂高神社の境内に立ったとき、あるいは姫川の渓谷を見下ろしたとき、そこに「大和を通さない道」を切り拓いた古代人の情熱と、グローバルな経済圏の記憶を感じていただければ幸いである。

参考文献・資料一覧

本記事の執筆にあたり、以下の文献・研究報告・史料を参照いたしました。

1. 考古学・ネットワーク分析・流通関連

  • Mizoguchi, Koji. (2013). “Nodes and Edges: A Network Approach to Hierarchisation and State Formation in Japan.” Journal of Anthropological Archaeology.
    • ※社会ネットワーク分析(SNA)を用い、日本列島内の相互作用圏と階層化を分析した研究。
  • Bellwood, Peter et al. (2007). “Ancient jades map 3000 years of prehistoric exchange in Southeast Asia.” Proceedings of the National Academy of Sciences.
    • ※翡翠(軟玉)の広域海上交易ネットワークに関する科学的分析。
  • Glover, Lauren L. (2014). “The Trade, Exchange and Manufacture of Stone Ornaments in Korea and Japan ca. 250-700CE.” University of Wisconsin-Madison.
    • ※日韓における玉類(翡翠含む)の生産と流通、威信財としての役割に関する研究。
  • Nakamura, Oki. (2015). “Importance of Circum-Japan Sea trade networks in the transition from the Yayoi Period to the Kofun Period.” Japanese Journal of Archaeology.
    • ※弥生〜古墳時代移行期における環日本海交易ネットワークの重要性について。
  • Tamura, T. et al. (2016). “Ancient Japan and the Indian Ocean interaction sphere: chemical compositions, chronologies, provenances and trade routes of imported glass beads.”
    • ※ガラス玉の化学組成分析による、インド・太平洋〜日本海ルートの交易証明。

2. 地域研究・遺跡報告(糸魚川・能登・信濃)

  • 糸魚川ジオパーク協議会. 「日本の国石 ヒスイ」および関連地質資料.
  • のとルネ(能登地域観光情報). 「高句麗式の構造の古墳『須曽蝦夷穴古墳』」.
  • JAグリーン長野. 「大室古墳群:日本最大級の積石塚」.
  • Kang, Hyun-sook. (2013). “Origins of Early Goguryeo Stone-piled Tombs and the Formation of a Proto-Goguryeo Society.” Journal of Korean Art and Archaeology.
    • ※高句麗式積石塚の起源と構造に関する比較研究。

3. 歴史学・一次史料

  • 『古事記』(大国主命と沼河比売の婚姻譚、国譲り神話)
  • 『先代旧事本紀』(建御名方神の出自に関する記述)
  • 『出雲国風土記』
  • Wikipedia Contributors. “Azumi people” (安曇氏の概要と分布).

4. その他参考資料

  • Pearson, Richard. (1992). “Ancient Japan.” George Braziller.
  • Archaeopress. “Archaeology and History of Toraijin (Human migration).”
  • More Than Tokyo. “Itoigawa — The Forgotten City Of Jade.”
  • 三浦佑之(2021).「海の民」の日本神話ー古代ヤポネシア表通りをゆく 新潮社

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