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平安時代の百科事典『和名抄』が教える、命をつなぐ3つの「食」

目次

【はじめに】約1000年前の「百科事典」を開く

『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』、通称『和名抄』という書物があります。 どのような書物なのか、文化遺産オンラインにはこう解説されています。

和名類聚抄(和名抄)は平安時代中期、当代随一の和漢にわたる学者であった源順(みなもとのしたがう)が撰した、現存最古の分類体漢和辞書である

文化遺産オンライン「和名類聚抄」

平安時代中期、承平年間(931~938)に、醍醐天皇皇女の勤子内親王(いそこないしんのう)のために、源順(みなもとのしたがう)が作ったとされています。

現代の私たちは、これを単なる「昔の辞書」として博物館のガラスケース越しに見がちです。 しかし、その中に記された「植物の注釈」をデータとして抽出してみると、それは、飢饉や災害のときに命をつなぐための「データベース」としての姿でした。今回は、データ分析で見えてきた「平安時代の生存戦略」を、4つのフェーズに分けて紐解いていきます。

『和名抄』が教える、命をつなぐ3つのフェーズ

フェーズ1:味覚の喜び「食(しょく)」

まず最初は、平和な日常で楽しむ「美味しい」木の実たちです。

注目したいのは「胡桃(クルミ)」です。 日本のオニグルミは縄文時代から続く在来種ですが、和名抄はこの実になんとも魅力的な解説を添えています。

「食之有油甚美(これを食せば油があり、甚だ美し)」巻16

「甚だ美し(とても美味しい)」。辞書の中に、これほど感情的な賛辞が残されていることに驚かされます。 当時の人々にとって、オニグルミは、油分たっぷりの貴重なご馳走だったことがうかがえます。

「博物志云、張騫使西域還時得之……(博物志に云う、張騫が西域より還る時にこれを得たり)」巻16

これは、漢の武帝に仕えた探検家・張騫(ちょうけん)が、シルクロード(西域)から持ち帰った実だから「胡(=異国の)桃」と呼ぶのだ、という中国の故事の引用です。このように和名抄には『西域から持ち帰った』という中国の伝説(ペルシャグルミの話)が引用されています。しかし、注釈にある『和名 久流美』が指していたのは、日本の川辺にある在来種のオニグルミでした。 平安の人々は、目の前の無骨なオニグルミをかじりながら、『これが本に書いてあるシルクロードの味かぁ』と、遠い異国に思いを馳せていたのかもしれません。

そしてもう一つは「椎(シイ)」です。 こちらは「菓類(おやつ)」のカテゴリーにしっかりと分類されています。 アク抜きがいらず、殻を割ればすぐに食べられる椎の実は、子供たちのおやつのような、森のファーストフードでした。

椎子: 「本草云椎子[……和名之比]」 (本草に云う、椎子。和名はシイ) 巻17

櫟子(イチイ): 「……相似而大於椎子者也」 (シイに似ているが、シイよりも大きいものである) 巻17

「和名抄を見ると、椎の記述は驚くほど淡泊です。『美味しい』とも『注意せよ』とも書かれていません。 しかし、隣の『櫟(イチイ)』の説明にはこうあります。『シイに似ているが、シイより大きい』。

これが何を意味するか分かりますか? 平安時代の人々にとって、椎の実は説明不要の『森の標準サイズ(ものさし)』だったのです。 誰もがその形と大きさを知っていて、安心して口に放り込む。特筆することすらないほどの日常です。

そのほか、山桜桃(ユスラウメ): 「味甜美可食矣(味は甘く美し、食らうべし)」や、楊梅(ヤマモモ): 「味甜酸(味は甘酸っぱい)」などが記載されています。

フェーズ2:知恵による獲得「熟(じゅく)」

次の段階は、そのままでは食べられないものを、知識と技術で食べ物に変えるフェーズです。 ここで重要なキーワードは「熟(じゅく・よく煮る)」です。

蕨(ワラビ)・薇(ゼンマイ): 「置熱湯中令熟然後可噉之(熱湯の中に置き、熟せしめ、然るのちにこれを噉(くら)うべし)」 巻17

ただ「食べる」とは書いてありません。「熱湯で処理しろ」という具体的なプロセス(マニュアル)が指示されています。 野山にあるシダ植物は、アク抜きを知らなければ毒ですが、知恵を使えば食料になります。 「手をかければ食べられる」という解決策が記されています。

フェーズ3:生死の境界線「糧(かて)」

最後、最もシリアスな段階が「糧(かて)」です。 ここに、現代ではほとんど食べられなくなった「薢(トコロ)」という植物が登場します。

『和名抄』の「芋類」のページを開くと、興味深い対比が見てとれます。 まず最初に書かれているのは、私たちがよく知る「山芋(ヤマノイモ)」や、その子供である「零余子(ムカゴ)」です。これらは当然、美味しく食べられる山の恵みです。

しかし、そのすぐ横に、異様な名前の植物が並んでいます。 それが「トコロ」です。和名抄には、その漢字表記についてこう記されています。

「漢語抄用野老二字」 (漢語抄では「野老」の二字を用いる) 巻17

「野老(野の老人)」。 トコロの根がひげ根を多く持ち、曲がりくねった姿が、腰の曲がった老人に見えることから付いた名です。 きらびやかな「胡桃」や「桜桃」とは対照的な、土の匂いがする枯れた名前です。

そして、その味と扱いについては、決定的な一文が添えられています。

「味苦小甘無毒、焼蒸充粮」 (味は苦く、少し甘みがあり毒はない。焼いたり蒸したりして糧(かて・食糧)に充てる) 巻17

ここには、二つの重要な事実があります。

  1. 「美味」ではなく「無毒」: 隣の山芋が「美味しい」のに対し、トコロは「苦い」。しかし「毒はない」から食べられる。評価基準が「味」から「安全性」にシフトしています。
  2. 「充粮(糧に充てる)」: ここでもやはり「食(たべる)」ではなく、「粮(糧)」という字が使われています。 しかも「焼蒸(焼いたり蒸したりして)」という具体的な調理プロセスまで指示されています。

なぜ、胡桃のように「食」ではなく、「糧」という字が使われたのか? その答えは、同じ『和名抄』の中にある動物の記述を見ると戦慄します。

師子(ライオン): 「虎や豹を糧とする」
猫(ネコ): 「鼠を捕らえて糧とする」
獺(カワウソ): 「魚を食べて糧とする」

そう、「糧」という言葉は、ライオンが肉を食らい、猫がネズミを食らうような、「生存のためのエネルギー補給(捕食)」の文脈で使われているのです。

人間も、飢えて追い詰められたとき、苦いトコロをかじって「糧」とする。 その瞬間、人間は文化的な「食事」を捨て、野生動物と同じ「生存本能」剥き出しの領域に立つことになります。 『和名抄』は、この「人間が動物としての生命力に立ち返る瞬間」を、「糧」の一文字で表現しているのです。

山芋もムカゴも尽き果てた飢饉の冬。 人々は土を掘り返し、そこに出てきた土塊のような「野老(トコロ)」を見つけます。 「苦いぞ、美味くないぞ」と言いながら、それでも生きるために、焼いて、蒸して、ひたすら腹を満たす「糧」にする。

『和名抄』の「野老」という文字の向こうには、命をつなごうとした、平安時代の人々の執念が埋まっているのです。

【おわりに】平安の「ログ」が、江戸の「命」を救うマニュアルに変わるとき

『和名抄』が編纂されてから、約700年後の江戸時代。 日本はたびたび大飢饉に見舞われました。そのとき、幕府や学者たちが庶民のために配ったのが『救荒本草(きゅうこうほんぞう)』というサバイバルマニュアルです。

そこに「命を救う植物」として大きく描かれていたのは、あの苦い「野老(トコロ)」であり、日常の「椎(シイ)」だったからです。 平安の人々が「これは糧(かて)になる」「これは毒がない」と書き残したデータは、単なる記録ではありませんでした。 数百年という時を超え、まさに予言通りに機能し、飢えた人々の命を物理的に救い出したのです。

そして、その「命のバトン」は、途切れることなく私の手元まで届いています。

明治生まれの私の曾祖母は、ある日、近所の神社の境内で、足元の木の実を拾ってこう言いました。

「椎の実はね、殻をむいてそのまま食べられるんだよ」

神社の森、いわゆる「鎮守の森」には、椎や銀杏など、食べられる実のなる木が多く植えられています。 それは単なる景観ではありませんでした。 いざという時、地域の人々が駆け込み、飢えをしのぐための「生きた備蓄庫(パントリー)」として、計画的にデザインされた場所だったのです。

「救荒食(きゅうこうしょく)」。 聞き慣れない言葉ですが、それは特別な非常食のことではありません。 「これには毒がある」「あれは苦いけど食べられる」「これは生じゃダメだ」 そういった、先祖たちが体を張って検証し、子孫に残そうとした「愛と執念の知識」そのものなのです。

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