天皇家2000年以上の長い歴史の中で、重祚(一度退位(譲位)した天皇が再び即位すること)されたのはたった二回であったという。
最初が35, 37代 皇極天皇/斉明天皇で、二回目が46, 48代 孝謙天皇/称徳天皇だ。
また注目すべきは、その二回とも女性天皇のときであったということだ。
昨今、女性天皇や女系天皇について議論が盛んになっているが、その一例として46, 48代 孝謙天皇/称徳天皇について下記の本を参考にして書いてみようと思う。
第46代 孝謙天皇(七四九-七五八年)
七三七年、聖武天皇の皇女・安部内親王が皇太子に立った。
高森明勅. 歴代天皇事典 (PHP文庫) 株式会社PHP研究所
初めての女性の皇太子である。
その十一年後、天皇から皇位を譲られ、即位した(孝謙天皇)。
このとき孝謙天皇は三十二歳だったが、聖武天皇が上皇となり、引き続き政務を見た。
また、七五七年に聖武上皇が崩御した後は、母の光明皇后が後見した。
孝謙天皇は国を治める基本は「孝」であるとし、家ごとに「孝経」一巻を所蔵させた。
また、孝謙天皇も先代同様、仏教への信仰が深く、七五二年、東大寺の大仏が完成すると、開眼供養を行った。
孝謙天皇は自ら文武の官人を引き連れ、盛大な仏事を主催した。
僧侶一万人の読経のなか、波羅門僧(インド人)の菩提菩提僊那によって大仏の目が点じられた。
その儀式はすばらしく、仏教伝来以降、かつてないほど大がかりな法会だったという。
七五三年、唐の高僧・鑑真が日本に到着した。
鑑真は東大寺に戒壇(授戒の儀式を行う壇)を設立し、聖武上皇や孝謙天皇に授戒した。
孝謙天皇は独身で皇子も皇女もいなかったために、皇位継承がこの時代の大きな問題になった。
七五六年、聖武上皇の遺詔 により、道祖王(天武天皇の孫)が皇太子に任命されたが、翌年、服喪中にもかかわらずふしだらであったという理由で、皇太子を廃された。
そこで孝謙天皇は、皇太子を誰にすべきか群臣にたずねた。
すると、藤原仲麻呂が大炊王(天武天皇の孫、次の淳仁天皇)を推挙した。
仲麻呂は、疫病で亡くなった武知麻呂の子で、兄の豊成が右大臣になったのに伴い、政界に進出してきた実力者である。
その仲麻呂には真従という息子がいたが、これが亡くなると、その妻を大炊王に娶らせ、自宅の田村第に住まわせていた。
つまり、仲麻呂は大炊王を皇太子にすることで、自らの権威を拡大しようとしたわけである。
孝謙天皇の仲麻呂への信頼は大炊王を皇太子に立て、また平城宮の改修にあたり田村宮(田村第のこと)に移るほど、厚かった。その仲麻呂は紫微内相に任命された。
皇后職を改称したものを「紫微中台」といい、紫微内相とは、その長官のことであり、軍事大権を含めた天皇大権の多くを代行する権力を仲麻呂は握ったのである。
こうして仲麻呂が台頭してくると、橘奈良麻呂(諸兄の子)がそれを廃そうとクーデターを計画した。しかし、計画は事前に密告され、一味は捕らえられ、奈良麻呂はその答弁書のなかで仲麻呂の失政を糾弾した。
翌年、孝謙天皇は皇位を皇太子に譲った。
第47代 淳仁天皇(七五八-七六四年)
孝謙天皇は皇位を皇太子の大炊王に譲り上皇となり、大炊王が即位した(淳仁天皇)。
高森明勅. 歴代天皇事典 (PHP文庫) 株式会社PHP研究所
天皇の後ろ盾となったのが、実力者の藤原仲麻呂である。
唐好みの仲麻呂は孝謙上皇に「宝字称徳孝謙皇帝」という称号を贈った。
仲麻呂はまた、天皇から、「恵美押勝」の姓名を与えられた。
ところが、七六二年、孝謙上皇と淳仁天皇の関係が不和となり、上皇が再び執政権を握った。
その後、上皇の押勝(藤原仲麻呂)に対する信頼も薄れ、七六四年九月、押勝は謀反を起こしたが、捕らえられ斬られた。
翌月、孝謙上皇は淳仁天皇を捕らえ、帝位を廃し、淡路国に幽閉した。
これにより、天皇は「淡路廃帝」と呼ばれるようになった。
翌年十月、淳仁天皇は幽閉先から脱出したが、捕らえられ、その翌日になくなった。
歴代天皇に加えられたのは、一八七〇年(明治三)のことである。
第48代 称徳天皇(七六四-七七〇年)
七六一年、孝謙上皇と淳仁天皇は、平城宮を改造するために近江国の保良宮に移った。そこで上皇は僧道鏡と出会い、その後、調停は大きく揺らいでいった。
道鏡は河内の弓削氏の出身(天智天皇の孫とする異説もある)。
若いときに葛城山で修行し、験者として名声を得た僧である。
その道鏡が保良宮で上皇を看病したことから、たちまち上皇の信任を得るようになったという。
その後も、孝謙上皇の道鏡への寵愛は一層大きくなり、再び執政権を握るようになった背景にも、道鏡の思惑がはたらいたと見られている。
また、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱も、上皇に寵愛される道鏡を妬んだ押勝が、道鏡を排除しようとして失敗した事件である。七六三年、孝謙上皇は少僧都(僧官の一つ)の慈訓法師を解任し、その職に道鏡を新たに任命した。
七六四年、孝謙上皇は淳仁天皇の帝位を廃し、再び即位(重祚)した(称徳天皇)。
称徳天皇は譲位後の七六二年に出家しており、仏門にありながら重祚するのはきわめて異例である。
翌年、天皇は年号を「天平神護」と改めた。同年十月、淡路廃帝(淳仁天皇)が亡くなると、称徳天皇は道鏡を太政大臣禅師とし、文武百官に礼拝させた。
さらに天皇は、翌年十月、道鏡を法王とした。法王は官の最高位であり、天皇に準ずるものである。
こうして道鏡は法王にまでのぼりつめたが、称徳天皇の寵愛はまだ止まることをしらなかった。七六九年九月、祭祀を司る者が道鏡に媚び、宇佐八幡宮の神のお告げと偽って「道鏡を皇位につければ天下は太平になる」といった。そこで称徳天皇は和気清麻呂を宇佐八幡宮に遣わし、神託を聞かせた。
すると、八幡大神から「わが国家は開闢より君臣の秩序は定まっている。
高森明勅. 歴代天皇事典 (PHP文庫) 株式会社PHP研究所
臣下をもって君主とすることはいまだかつてなかった。
皇位には必ず皇統の人を立てよ。無道の人は早く排除せよ」と神託があり、清麻呂はそのまま天皇に報告した。
道鏡は怒り、清麻呂の官職を解いて左遷した。
また、称徳天皇も清麻呂の官籍を奪い、大隅国に配流した。
こうして道鏡の野望は砕かれたが、その後も天皇の寵愛は変わることなく続いた。
そんななか、七七〇年八月、称徳天皇は崩御した。
称徳天皇に寵愛された道鏡は、称徳天皇崩御後、下野国(栃木県)の薬師寺に左遷され、その二年後に死去したそうだ。
もしも、道鏡が天皇になっていれば、天皇家の血統が変わっていたという大事件である。
これをはじめて知ったときはかなり衝撃を受けた。
さて、孝謙天皇/称徳天皇のように、女性が天皇に即位されるのは珍しいことなのだろうか。
歴代天皇のなかで女性天皇は8人いて、特に飛鳥~奈良時代は推古、皇極(斉明)、持統、元明、元正、孝謙(称徳)の6人(八代)が即位されている。
したがってこの時代、女性天皇はそれほど珍しくなかったといえるだろう。
女性天皇の役割として後継者候補の対立を避けるために一時的に擁立されることや、皇太子が成人するまでの間に即位するなどの中継ぎということがほとんどだという説もある。
さらに女性天皇が即位後に摘子を生んだ場合、その子が後継者となるため、中継ぎとしての役割と反することから、女性天皇は践祚した後には配偶者を迎えなかったという。
ところで称徳天皇まではたびたび女性が天皇となることもあるが、称徳天皇後、およそ800年もの間、女性天皇が出てくることはなかった。
これは私の個人的な感想であるが、道鏡の事件があまりにも朝廷にとって脅威に感じ、滅多なことがない限り、女性天皇は擁立しないようにするというのが、内々であったのではないだろうか。
しかしながら、孝謙天皇/称徳天皇を一例にして女性天皇がだめというわけではない。
推古天皇をはじめとして、すばらしい女性天皇はいらしたからである。
今回は孝謙天皇/称徳天皇にフォーカスしたが、今後もいろんな天皇について調べて、書いていきたいと思う。
コメント
コメント一覧 (3件)
永井路子先生著書の「美貌の女帝」を読んで 同感なのですが、女性天皇が「中継ぎ」と言うのは 違うと思ってます。
元明・元正天皇は 蘇我氏対藤原の戦いで プライドの高い蘇我系の女性達が 臣下であった藤原に 権力が移るのを 阻止しようとしていたのだと思ってます。女性だからこそ わかるような気がするんです。
例えが ちょっと変ですが、お市の方が 秀吉を嫌って柴田勝家に嫁ぐ感じでしょうか、、、下と思ってた藤原が台頭するのが許せなかったんじゃ無いですか?だから、不比等の娘 宮子との子供を天皇にしたく無くて元正天皇だったのだと思います。でも、長屋王がやられて 藤原に権力が移っていったのだと、、、違うかもしれませんが そう思いたいです。
加藤様
コメントいただきありがとうございます。
「中継ぎ」という表現は、誤解を招く言い方だったかもしれません。
私が参考にした本には、「中継ぎ」と表現されておりましたのでそのまま記載しました。
史実として、例えば元明天皇は平城京への遷都、元正天皇は三世一身法を発布されるなど、歴史に残る天皇陛下です。
女性天皇お一人お一人に、深くフォーカスしていくと、ほかにもさまざまなエピソードが見つかることでしょう。
今後の記事執筆のテーマとして参考にさせていただきます。
貴重なご意見をありがとうございます、ひきつづきよろしくお願いいたします。
丁寧に返信していただき ありがとうございます♪
又、よろしくお願いします。