今回は、雄大な富士山がどのようにして神聖視され、噴火という自然現象と深く関わりながら信仰へと発展していったのか、歴史の流れを辿ってみたいと思います。参考にしたのは、山岳修験 第70号『富士山大会特集』や、植松章八氏の『富士山と仏教信仰』Journal of Fujiology, Vol.11, No.1, 2013の研究成果などです。ほかにも内容に応じて様々な研究論文を引用しています。楽しんでいただければ幸いです。
古代の富士山麓
地質時代の第四紀氷河時代に発生した最後の氷期は、ヴュルム氷期と呼ばれています。そのヴュルム氷期の約7万年~約1万年前のうち、最も寒冷だった約2万1千年前を「最終氷期最寒冷期」といいます。テフラという火山灰を用いた研究によると、富士山周辺では6万5千年前以前には遠方まで泥流をもたらすような大きい高い火山があったと推定されており、富士山の東麓・西南麓でもとくに2万年前後に岩屑なだれ・泥流が多発したとみられています。(参照:町田洋2007「第四紀テフラからみた富士山の成り立ち:研究のあゆみ」_富士火山p29-44,山梨県環境科学研究所)


津屋(1940,1968)の層序で最も重要な点は,富士山を古富士火山と新富士火山に区分したことである.その根拠は,1)古富士火山噴出物は富士川河口断層系により明瞭な変位を受けるが,新富士火山噴出物はそうではないことによる構造地質学的な違い,2)新富士火山噴出物は侵食された古富士火山噴出物を谷埋めする層序関係の違い,3)山麓の古富士火山噴出物は火山砕屑物が卓越するのに,新富士火山噴出物は山麓でも溶岩流が卓越する活動様式の違いであり,津屋は両者の間には活動沈静期があったものと考えていた.一方,町田(1977)は,山麓の火山灰層序より,富士黒土層を境に,古期富士と新期富士に分類していた.このため,津屋と町田のステージ区分には食い違いが生じており,火山体構成物と遠方火山灰の対比を含めた富士火山の噴火史再構築が必要とされていた.本研究では,山体構成物である溶岩流,火砕丘堆積物,岩屑なだれ堆積物,火砕流堆積物と遠方の降下火山灰について,相対的層序と放射性炭素年代を総合的に検討した.その結果,約1.7万年前頃の溶岩大量流出を境に,それ以前を星山期(約10万年前〜Cal BC 15000年),それ以後を富士宮期(Cal BC 15000〜Cal BC 6000年),さらに,町田(1977)の富士黒土層以降を須走期と定義した山元ほか(2007)のステージ区分を踏襲する.須走期の命名は,泉ほか(1977)及び上杉ほか(1979,1987)による.須走期は,富士黒土層の須走-a(Cal BC 6000〜3600年),それに重なる須走-b(Cal BC 3600〜Cal BC 1500年),須走-c(Cal BC 1500〜Cal BC 300年),須走-d(Cal BC 300年以降)に分けられる

上記の研究をみると、ヴュルム氷期の終わりごろは、気候が厳しいだけではなく富士山がかなり活発に活動していたことがわかります。そのような時期に、周辺では約2万年前からの遺物が確認されており、人の活動があったことがわかっています。本記事では特に富士山と信仰の関連をみていきたいと考えています。そのため、富士山の噴火と信仰に関する興味深い遺跡を次に紹介したいと思います。
国指定史跡 大鹿窪遺跡(おおしかくぼいせき)
紹介する遺跡の場所は、富士山西麓の富士郡芝川町大鹿窪に位置しています。遺跡は、今から約11,000年前の縄文時代草創期(そうそうき)のものでした。集落には、お祭りをした跡と思われる配石遺構(はいせきいこう)等が発見されています。
その時期がどのような気候だったか、すこし説明します。前段で説明したヴュルム氷期が終わったあと、しばらく温暖な時期となりました。しかし、その後「ヤンガードリアス」と呼ばれる寒冷な時期が約1300年ほど続きます。このヤンガードリアスまでが第四紀の「更新世」、ヤンガードリアスのあとに現代のわたしたちが生きている地質時代である「完新世」になります。ヤンガードリアスは暦年代で約 11,500年前です。ヤンガードリアスはヨーロッパをはじめとして北半球の高緯度で起きました。世界各地の山岳部での氷河作用の進行、もしくは降雪量の増加が明らかになっています。ヤンガードリアスの終了後は数年で7℃以上という急激な温暖化が起こったことが複数の研究で明らかになっています。


遺跡からは、当該時期としては国内最多となる14基の竪穴住居が確認された。その壁面及び外周には柱穴が巡り、床面中央に焼土粒・炭化物粒を埋土に含む炉と考えられる掘込みをもつものもある。これら竪穴住居は、広場と推定される空間域を中心に半円形に計画的に配置されている。出土遺物は、縄文土器と石器を中心として26,000点に及ぶ。土器は、押圧縄文系、隆線文系、爪形文系等の草創期の土器が主体を占め、出土石器は、石鏃、尖頭器、有舌尖頭器などの狩猟具や、植物利用に供された石皿、磨石、敲石などがあり、草創期を特徴づける矢柄研磨器も出土した。
大鹿窪遺跡の遺跡報告書(県営中山間地域総合整備事業柚野の里ほ場整備に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(遺物編).2006)によると、活発な火山活動期(前述の産総研の研究結果にもとづくと約1.7万年前頃に形成されたと考えるのが自然)の南北方向に流下する2条の溶岩流に挟まれたほぼ平坦な地形にあったそうです。富士山が良く見える場所で、当時の人びとはいったいどんな祭祀をしていたのでしょうか。
古墳時代から飛鳥時代:富士山と共にある人々
地質学時代としては6世紀頃といわれている青沢溶岩流が富士山の南斜面を流れ下り,溶岩流末端の山宮には,富士山本宮浅間大社の起源である社のない山宮浅間神社が建立されました。
青沢溶岩流(Sd-Aos):Cal BC 300頃以降の,山腹割れ目噴火が卓越した時期の噴出物である.この期にS-23以降の玄武岩質テフラ群が噴出した.南西山腹でのこの期に起きた割れ目噴火は,青沢溶岩流の流出が唯一である.模式地の本溶岩流直下の黒色土壌(FJM105, FJM104)からは 1,750±80yBP と 1,570±70yBP,二合目林道沿いの本溶岩流基底部の炭化木(FJM301)からは1,570±40yBPの補正年代値が得られた(山元ほか,2005).青沢溶岩流(Aos)からは2,040± 150yBPの年代値が報告されていたが(津屋,1971),新測定結果はCal AD 500年頃に良くまとまり大幅に若くなっている.
富士火山南西部の地質_地質調査総合センター研究資料集,no.606, 1-27, 2014
南西斜面の青沢の右岸,標高1,950〜1,800 m付近から流出し,山宮浅間神社(標高380 m)まで下っている溶岩流である.この神社では,本溶岩流の末端崖が御神体となっている.斑晶量の少ない玄武岩のアア溶岩で,塊状部はあまり発泡していない.給源付近の青沢右岸には,本溶岩流で埋められた凹地形が沢と平行に並んでいる.凹地形周辺の地表には,最大径約30 cmの表面が赤褐色の火山弾が散らばっている.
cal ADのcalは「calibrated(較正された)」の略で、Cal AD 500年頃とは西暦500年頃を指しています。日本ではちょうど古墳時代中期末頃です。そのころの古墳時代の遺跡を確認すると、山梨県側も静岡県側でも多くの古墳が確認されています。特筆すべきは、日本書記で「壬申(じんしん)の乱」(672年)でめざましい活躍をしたと伝えられる「甲斐の勇者(たけきひと)」が記録されています。古墳時代末期にあたるこの時代の甲府盆地では、武器や馬具などの副葬品を持った古墳が数多く知られています。静岡県でも同様に多くの馬具が出土しており、この地域一帯に騎馬を得意とする軍事集団がいたことが考えられています。
平安時代から鎌倉時代:噴火と信仰の深化、そして修験道との融合
山岳修験第70号『富士山大会特集』の巻頭記事に上智大学の西岡芳文先生の講演が掲載されており、今回の記事を書くきっかけとなりました。私は卒論で富士山の現代の植物について調査していましたが、祖母方の親戚が浅間神社の関係者であることもあり、以前から富士講に興味を抱いていました。西岡先生によると、もともと富士縁起のルーツは神仙譚や道教的な色彩を持っているそうです。しかし、古文書に記載されている青木ヶ原溶岩流を噴出した貞観噴火(西暦864–866年)など、奈良時代から平安時代には富士山の活動が活発でした。そのため、国家的な奉弊の対象になったようです。そこで山宮や大宮の浅間社や甲斐の浅間社が神社として国家的な位置づけになります。そのような時代を経て、平安時代の中頃から、修験のルーツが出てくるようです。駿河南口の村山を本拠とする富士修験が形成され、富士山に登る、富士禅定という一種の修業の方法が出てくるようになります。平安時代末期には村山で一時代を画した末代上人(まつだいじょうにん)が登場します。末代上人は駿河国の人で、伊豆国走湯山で修業を重ね、西暦1132年に富士登頂を果たしています。村山修験の母体となった伊豆走湯山は、源頼朝の旗揚げに貢献したとして、走湯山の運営する船はどこの港でも無税でフリーパスという権益を認められていました。富士村山修験と深い関係にあった伊豆走湯山の伊豆修験については、殆ど文献資料が残されていない状況ですが、國學院大學の深澤太郎氏により考古学的調査がおこなわれています。

まとめ
富士山への信仰は、単なる自然崇拝に留まらず、噴火という劇的な自然現象が人々の精神と文化を刺激し、独自の宗教や儀式へと昇華していった歴史そのものです。富士山をめぐる祭祀や考古学的証拠は、地域の人々がこの雄大な山に抱いた畏敬と祈りの深さを如実に物語っています。今日、私たちが富士登山や各地の神社仏閣でその伝統を感じるとき、これらの歴史的背景と考古学的証拠が、より一層その奥深い意味を伝えてくれているのだと思います。
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