東日本大震災における福島第一原発事故以降、原子力発電所(原発)について、もっと知って考えなくてはならないことだと思ってきた。
とはいえ、原発・原子力といっても技術的なことから、政治的背景まで広範な内容になるため、なかなか深く知るのは難しいことであった。
難しい内容ではあるが、原発・原子力に関して、一つの社会史としてわかりやすくまとめた本「新版 原子力の社会史」をみつけたので、その本の内容を紹介することで、日本の原発の歴史を探っていこうと思う。
本記事で紹介するのは、この本の第一章「日本の原子力開発利用の社会史をどうみるか」である。
この第一章では、原子力利用の歴史を、時代区分に分けてわかりやすく整理されており、今回はこの第一章を引用する。
そのほかの章では、時代区分ごとのさらに詳細が書かれているので、ぜひ購入して読んでみてほしい。
原発・原子力開発における二つの勢力
原子力開発はそもそも、国策として進められてきた経緯がある。
しかしながら調べてみると、いろんな機関が存在しており、体系的にそれらの役割などを知るのは難しいものがある。
以下によれば、国策で原子力開発を推進している機関は、歴史的にはおおきく二つのグループに分けることができるようだ。
まず第一の二元体制という特徴について基本的な説明をおこなっておく。二元体制とは前述のように、原子炉および核燃料の開発利用の制度的メカニズムが、二つの勢力により分割されてきたことをさす。つまり電力・通産連合と科学技術庁グループが、たがいに縄張りの棲み分けをはかりつつ、それぞれの事業を進めてきたのである。なお二元体制とは、事業性格の縄張りにかかわる概念であり、事業内容の縄張りにかかわるものではない。すなわち一方の電力・通産連合は、商業段階の事業を担当し、他方の科学技術庁グループは商業化途上段階の事業を担当してきた(ところで大学系の研究者は基本的に二つのグループを補佐する役割に甘んじてきた。それは独自の第三勢力を形成することはなかった。)
朝日新聞出版 新版 原子力の社会史 吉岡斉
電力・通産連合
電力・通産連合のおもな構成メンバーは、次のとおりである。
朝日新聞出版 新版 原子力の社会史 吉岡斉
(1)通産省(およびその外局である資源エネルギー庁)。二〇〇一年からは経済産業省(経産省)
(2)通産省(経産省)系の国策会社(電源開発株式会社)
(3)電力会社およびその傘下の会社(九電力、日本原子力発電、日本原燃)
(4)原子力産業メーカー
(5)政府系金融機関(日本開発銀行、日本輸出入銀行。のちに国際協力銀行、日本政策投資銀行に統合)
論者のなかには、電力業界と通産省の対立関係を強調する者が少なくない。そしてそれは一面の真実である。だがより大きな視野からみれば両者の関係は、対立を内包しつつも基本的には協調関係である。したがって、電力・通産連合という呼称は、両者の利害対立を主題とした分析をおこなう以外の場面では妥当である。
電力・通産連合の事業分野は、原子炉に関しては発電用原子炉(一号炉のみ英国製の黒鉛減速ガス冷却炉、二号炉以降はすべて米国製の軽水炉)の導入・改良・利用であり、そこでは外国技術の導入習得路線が採用されてきた。そして今日までに日本の原子炉メーカーの国産化率は多くの場合九九%以上に達したが、アメリカの機嫌を損ねないようライセンス生産契約を破棄せず、第三国への輸出に関してアメリカ政府およびメーカーとの共同管理となっている。また核燃料に関しては、海外からのウラン購入、ウラン濃縮サービス委託、並びに使用済核燃料再処理サービス委託の三社を中心とする購入委託路線が採用されてきた。この二つの路線の組み合わせにより電力・通産連合は着実に、原子力発電事業を拡大することが可能であった。日本の原子力共同体のなかで「主役」の座を占めてきたのは、この電力・通産連合である。発電用原子炉の導入習得路線は十分な成功を収め、また核燃料の入手や再処理委託に関しても今まで支障をきたすことはなかったからである。
科学技術庁グループ
一方、科学技術庁グループは、科学技術庁(二〇〇一年に文部省に併合され文部科学省に)本体と、その所轄の二つの特殊法人(日本原子力研究所、動力炉・核燃料開発事業団)、および国立研究所(理化学研究所、放射線医学総合研究所など)を、主たる構成メンバーとしていた。このグループは、実用化途上段階にあるとされる技術を、日本国内に商業技術として確立することを最終目標として、開発活動をつづけてきた。そしてその事業は、歴史的に先行した再処理を唯一の例外として、国内開発路線を採用してきた。科学技術庁グループは、一九六〇年代後半に、本格的な原子炉および核燃料の開発体制(ナショナル・プロジェクト方式、タイムテーブル方式、チェック・アンド・レビュー制度の三社を骨子とする)を確立した。この開発体制のなかで中心的な役割を与えられたのが、一九六七年一〇月に発足した動力炉・核燃料開発事業団(動燃)である(九八年一〇月に核燃料サイクル開発機構へと改組)。なお、一九六〇年代前半までの原子力開発で中心的役割を果たしてきた日本原子力研究所(原研)は、基幹的ナショナル・プロジェクトから外され、周辺的ナショナル・プロジェクトを担当することとなった。
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動燃は四つのナショナル・プロジェクトを推進してきた。まず原子炉に関しては、軽水炉よりも先進的といわれる原子炉の国内開発を進めてきた。その対象となった炉型は、新型転換炉ATR(Advanced Thermal Reactor)と高速炉FBR(Fast Breeder Reactor)の二種類である。つぎに核燃料に関しては、再処理とウラン濃縮の二つが重要である。再処理に関しては、フランスからの全面的な技術導入にもとづいて東海再処理工場を建設し、運転をおこなってきた。またウラン濃縮では、遠心分離法を用いた国内工場の建設をめざし、パイロットプラントと原型プラントを、相次いで岡山県人形峠に建設し運転をおこなってきた。この四種類が科学技術庁グループの主要プロジェクトであり、その大黒柱にあたるのが、高速増殖炉開発計画であった。それら以外にも原子力船や核融合など、多くのプロジェクト研究を、科学技術庁グループは推進してきた。しかしそれらはおしなべて遅延に遅延を重ねており、一つとして真の意味での実用段階(つまり電力供給等の実用目的に供する事業として、それぞれの対抗馬に対する経済的競争力をもつ段階)に達していない。このように科学技術庁グループのあげた成果は、電力・通産連合と比べていちじるしく貧弱であった。そのため日本の原子力共同体のなかで脇役に甘んじてきた。
日本の原子力利用における時代区分
以下によれば、日本の原子力利用は大きく6つの時代区分に分けることができるという。
第Ⅰ期 戦時研究から禁止・休眠の時代(一九三九~五三)
まず第Ⅰ期(一九三九~五三)においては、二つの原爆研究プロジェクト、つまり陸軍の「二号研究」と海軍の「F研究」が、同時並行的に進められた。前者はウラン分離筒(熱拡散法を用いたウラン濃縮装置)という実験装置の建設計画を含んでいた点で、机上の作業のみに終始した後者とは一線を画するプロジェクトだった。しかし日本の戦時原爆研究は全体として、連合国によるマンハッタン計画はもとより、ドイツの原爆研究と比べても、大幅に劣ったものだった。それは原爆材料生産に関してウラン濃縮路線のみを進め、もう一つの路線であるプルトニウム(九四番元素)抽出路線に関してはまったく作業を進めなかったのである。ウラン濃縮路線に関しても、実験的成果は皆無であった。
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敗戦後、極東委員会および連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の発した原子力研究禁止令により、原子力研究は全面的に」禁止された。ただしアメリカ主導で進められた原爆被害調査には、多数の日本人医学者が動員された。それは広義の原子力研究とみなすことができるが、原子力研究禁止令には抵触しなかった。サンフランシスコ講和条約(五二年四月発効)のなかに原子力研究の禁止または規制に関する条文が含まれなかったため、日本の独立回復と同時に原子力研究は解禁となったが、科学界において優勢だった慎重論により、研究活動は事実上の休眠状態におかれることとなり、その本格的再開までに約二年を要した。
この時代を終わらせる決め手となったのは、1953年12月アメリカのアイゼンハワー大統領がおこなった演説「平和のための原子力」であったと私は考える。
これはマンハッタン計画(枢軸国に対抗してアメリカ・カナダ・イギリスが原子爆弾開発と製造を推し進める計画)から脱却し、戦力としての核を減らし、核の平和利用によってビジネスを進めたいという意図があったと思われる。
第Ⅱ期 制度化と試行錯誤の時代(一九五四~六五)
第Ⅱ期(一九五四~六五)の開幕を告げたのは、五四年三月の中曽根康弘らによる原子力予算の提出と、そのあっという間の可決成立である。原子力予算成立を契機として、政府と産業界は学会の協力を得て、原子力研究の推進体制(意思決定体制と、研究実施体制の両面にわたる)を整備し始めた。この第Ⅱ期は、原子力研究の推進体制が確立する一九五六年まで(これを草創期と呼ぶ)と、具体的な事業が本格的に始まる五七年以降(これを展開期と呼ぶ)の二つの時期に細分化するのが適当である。
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まず一九五六年までの時期(第Ⅱ期の草創期)においては、海外の原子力研究の動向に関する調査研究が進められるとともに、原子力研究の推進体制の整備が進められた。前者に関してはアメリカや英国などの原子力先進諸国への海外調査団の派遣と、それによる現地での情報収集にもとづいて日本の方針を決めるという開発途上国的スタイルが定着し、その後も長期にわたり継続されることとなった。後者に関しては、五五年九月から一二月までのわずか四ヵ月の間に、政治家主導のもとで一気に、日本の原子力体制の主要な骨格がつくられた。そこにおいてリーダーシップを握ったのは、中曽根康弘民主党衆議院議員(五五一年一一月より自由民主党衆議院議員)を委員長とする、衆参合同の超党派的な「原子力合同委員会」であった。この委員会の活動により、原子力基本法の法案がまとめられ、可決された。また原子力委員会、科学技術庁、日本原子力研究所、原子燃料公社(のちに動力炉・核燃料開発事業団に発展的改組)などの設立に関する法案が整備され、可決された。
つぎに一九五七年からの時期(第Ⅱ期の展開期)においては、五七年末までに電力・通産連合と、科学技術庁グループの二つの勢力が並び立つ「二元体制」が形成され、それぞれのグループにおける事業が本格的に動き出した。それ以後の原子力開発利用は、各グループ内部での事業方針の修正があったとはいえ、この制度的枠組みのなかで進められるようになった。まず電力・通産連合は商業用発電炉として英国のコールダーホール改良型炉(黒鉛減速ガス冷却炉)の導入の準備を始めた。他方で科学技術庁グループは、日本原子力研究所(原研)を中心的な研究実施機関として、増殖炉自主開発を最終目標とする研究に着手し、また原子燃料公社を国内ウラン鉱開発にあたらせた。しかし両グループとも成果は芳しいものではなかった。電力・通産連合が最初の導入炉に選んだコールダーホール改良型炉は経済的にみて失敗作であった。また科学技術グループでも、日本原子力研究所の動力炉自主開発計画は混迷を重ね、原子燃料公社の国内ウラン鉱開発も失望的な結果に終わった。
この時期は上記のように政治主導で原子力開発利用を推し進めてきた。
象徴的な出来事としては、1956年に発足した原子力委員会の初会合の後、委員長の正力松太郎が「5年以内に採算の取れる原発建設」と発言している。
この発言を受けて、委員であった湯川秀樹博士が委員を辞任している。
第Ⅲ期 テイクオフと諸問題噴出の時代(一九六六~七九)
第Ⅲ期(一九六六から七九)の始まりを予告した事件は、一九六三年から六四年にかけてのアメリカでの軽水炉ブームの出現である。このブームを受けて日本の電力各社は、軽水炉導入に積極姿勢を示し、電機メーカーもまたアメリカとの技術導入契約など、軽水炉導入のための体制を整えた。また通産省も電力会社とメーカーを支援した。こうして電力・通産連合は、アメリカ製軽水炉の導入習得路線を精力的に推し進めるようになったのである。そこでは、沸騰水型軽水炉BWRを採用する東京電力/日立・東芝/GEの企業系列と、加圧水型軽水炉PWRを採用する関西電力/三菱/WHの企業系列の二つが、並び立つこととなった。東京電力と関西電力以外の七つの電力会社のうち、東北・中部・北陸・中国の四社がBWR系列に、残りの九州・北海道・四国の三社がPWR系列に入ることとなる。なお核燃料事業でも、核物質民有化により、購入委託路線をとる電力・通産連合が直接、海外との契約を結ぶようになった。
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他方、科学技術庁グループもまた、六〇年代半ばにおいて、本格的な原子炉・核燃料技術の開発体制を固めた。その中枢的な実施機関となったのは、六七年一〇月に発足した動力炉・核燃料開発事業団(動燃)であった。動燃はその発足とともに、三つの基幹的プロジェクト(新型転換炉ATR、高速増殖炉FBR、核燃料再処理)の推進に心血を注ぐようになった。さらに七〇年代初頭からは、第四のビッグプロジェクトとしてウラン濃縮開発に取り組むようになった。こうしてこの第Ⅲ期には、科学技術庁グループの四台プロジェクトが勢揃いしたのである。そうした基幹的プロジェクト以外にも、核融合や原子力船など多くの開発プロジェクトが推進されるようになり、一気に原子力開発事業の多角化が進んだ。
しかし、前述のように世界的にみると七〇年代半ばまでに、原子力開発利用の「黄金時代」は終焉し、英国やアメリカのように深刻な停滞状況に陥る主要国が出現し始めた。こうした世界的な原子力発電事業に対する逆風は、日本をも巻き込んだ。まず電力・通産連合についてみると、軽水炉型発電システムは三つの大きな難題に直面し、それらを乗り越えなければ一九八〇年代への展望は開けない危機的な状況を迎えた。第一の難題は、原子力発電所の事故・故障の続発と、それによる設備利用率の低迷である。第二の難題は、原子力発電所への反対世論の全国的な高揚である。第三の難題は、地元住民の不同意により新しい原発立地地点の確保がきわめて困難になったことである。だがそうした三重苦は克服不可能ではなかった。政治・経済の両面での手厚い国家的保護のもとで原子力発電所は毎年二基のペースで増加を続けたのである。
つぎに科学技術庁グループにとっても、七〇年代後半は以下二つの意味で危機の時代であった。第一の困難は、インド核実験のインパクトにより、核燃料サイクル開発計画に対する国際的な警戒感が強まり、アメリカからの外交的圧力が露骨な形で加えられたことである。その象徴的な事件として一九七七年、動燃東海再処理工場におけるプルトニウム抽出の方式をめぐり日米交渉が展開された。第二の困難は、原型炉やパイロットプラントのつぎの開発ステージにおいて建設される実証炉や商業プラントの事業実施主体が、なかなか決まらなかった点である。それらの大型原子力施設の建設・操業は、政府予算で支出可能な限度を大幅に上回る巨費を必要とする事業であり、電力業界に引きついでもらわなければ生き残れない状況にあったが、電力業界は経済的な見通しのなさから、及び腰の姿勢をとりつづけたのである。しかしさすがの電力業界も七〇年代末になって、ナショナル・プロジェクトの引きつぎに同意し、危機はひとまず回避された。
この時期は、原発に対する反対運動や事故などが多かったという。
反対運動として有名なのは、新潟・宮城・福島など原発予定地となった地域での反対運動である。
いずれも、1974年田中角栄内閣が出した「電源三法」という原発建設に対する補助金政策によって、反対運動は収束していった。
この時期の事故としては、1974年の原子力船「むつ」の放射能漏れが有名である。
第Ⅳ期 安定成長と民営化の時代(一九八〇~九四)
第Ⅳ期(一九八〇~九四)に入ると、日本の原子力共同体は七〇年代に噴出したさまざまな困難を克服し、安定期を迎えたようにみえた。まず電力・通産連合は、軽水炉の設備利用率低迷を克服し、反対運動の影響力が及びにくい日本的意思決定システムを活用して、毎年一・五基程度という原発建設のペースを維持することができた。これにより軽水炉を電力供給の一つの基軸とする時代が到来した。それを受けて、原子炉の設計・運転の合理化、廃棄物処分などバックエンド対策への着手、国際的な事業展開への模索など、軽水炉発電システムの包括的な整備が進められるようになった。一九八六年のチェルノブイリ原子力発電所四号炉の暴走・炉心溶融事故を契機に、ヨーロッパ諸国の原発事業は低迷期に入ったが、日本の原子力発電の拡大ペースは、その影響をほとんど受けなかった。その結果、一九八〇年代に運転を開始した発電用原子炉は一六基を数えた。さらに九〇年代に入ってからも九七年までに一五基が新たに運転を開始し、一九九七年末の段階で、日本の発電用原子炉の総数は五二基、総発電設備容量は四万五〇八二MW(メガワット)に達した。
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また、科学技術庁グループも、基幹的なプロジェクトの「民営化」による生き残りを実現させた。それとともにかつての四大プロジェクトの管轄権は高速増殖炉を除き、実用化段階に達したとして、科学技術庁グループから電力・通産連合へと移管されるようになった。再処理とウラン濃縮の商業施設は日本原燃、新型転換炉実証炉は電源開発、高速増殖炉実証炉は日本原子力発電が、それぞれ担当することとなったのである。だがそうしたかつての四大プロジェクトは、実際には技術面・経済面で昏迷を重ねていた。そうした経済的採算の見込みのいない事業に関して、政府がそれらを国策として推進しようとし、それに対して電力業界が国策協力を強いられる形になったのである。なお世界的には、一九八〇年代後半までに、それまで急速に事業を拡大してきたフランスも含めて、欧米諸国の原子力発電事業は軒並み停滞状態に陥った。またプルトニウム増殖路線についても、一九七〇年代半ばにアメリカがそれを見限り、九〇年過ぎまでにすべてのヨーロッパ諸国が同様の決断に踏み切った。これにより日本は原子力発電事業において、「国際的孤高」の地位を占めるにいたった。
第Ⅴ期 事故・事件の続発と開発利用低迷の時代(一九九五~二〇一〇)
ところが第Ⅴ期(一九九五~二〇一〇)を迎えるや、日本もまた欧米諸国の動きを追いかけるかのように、発電用原子炉の新設・増設のペースを大きくスローダウンさせた。さらにそれに加えて、プルトニウム増殖システムの実現という従来からの夢の実現可能性に関しても、赤信号が点滅するようになった。この時期は一五年にわたるので、前半と後半に分けて考えたほうが整理しやすい。前半は一九九五年頃から二〇〇〇年頃までであり、この時期には事故・事件・災害が続発し、原子力開発への国民の信頼が失墜したというのが主な流れである。そして信頼回復のための行政改革も一定程度にせよ行われた。また後述する電力自由化の動きも始まった。後半は二〇〇一年頃から二〇一〇年頃までである。この時期においても事故・事件・災害の続発も収まらなかった。それに加えて電力自由化問題がクライマックスを迎えた。電力自由化は原子力発電に対する大きな抑制要因となるため、この問題の行方は原子力開発利用の将来にとって決定的に重要であった。この二つの問題が重なったため、二〇〇〇年代前半は原子力開発利用にとって危機の時代であったといえる。
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結局は電力自由化がストップしたことにより、原子力開発利用は核燃料サイクルも含めて、引きつづき推進されることとなった。原子力開発利用のアンシャン・レジーム(旧体制)が再建されたのである。だが原子力開発利用の実績はきわめて低調であった。原子力発電の設備利用率は平均して六〇%台を低迷し、核燃料サイクル開発利用も不信をきわめたのである。そうした低調な実績とは裏腹に、二〇〇〇年代後半には原理力ルネッサンスが世界中に到来したかのような宣伝が繰り広げられ、原子力立国が唱導され、オールジャパン方式のインフラ輸出の最有力ぶんやとして原発輸出がクローズアップされた。
電力自由化が原子力開発利用になぜ影響があるのかについて考えてみる。
電力の供給は電力会社や、国の規制を受けていた独占企業が行ってきた。
一方この時期には、規制緩和がにより電力の供給および価格が自由化される国が現れだした。しかし、2000年アメリカのカリフォルニア州で深刻な電力危機発生し、電力供給の安定性、公益性を損なう事態が起きてしまった。これを受け、電力自由化の範囲に原子力発電が含まれるか否か、これが安全確保に脅威となりかねない事態になりうると考えられた。このことを日本の各電力会社が原発の経営リスクを深刻にとらえたと考えられる。
第Ⅴ期 前期(一九九五年~二〇〇〇年)
電力通産連合の動きからみると、それまで年平均一・五基程度ずつおこなわれてきた発電用原子炉の建設が九七年でいったん途切れ、次の発電用原子炉の完成予定時期(二〇〇二年)まで五年間のブランクが空くこととなった。それはバブル経済崩壊後の長期不況によるエネルギー需要の頭打ちと、電力自由化気運の高まりにより余剰施設の建設を抑制する必要が生じたためである。かくして原子力発電の安定成長時代は終焉した。
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その一方で軽水炉発電システムのインフラストラクチャー(とくにバックエンド関連施設)の整備がきわめて立ち遅れており、それを放置すれば原子力発電事業の継続にも支障をきたす可能性が高いことへの懸念が関係者の間で強まってきた。こうした状況のもとで電力・通産連合の最重要点課題は、軽水炉発電の拡大路線を続けることではなくなった。新たな最重要点課題は、既存の原理力発電所の長寿命化をはかりながら、余剰プルトニウムを処分しつつ、放射性廃棄物や使用済核燃料の貯蔵・処分に破綻をきたさないことである。
他方の科学技術庁グループは、いっそう厳しい状況に追い込まれた。それはみずからが育ててきた四大基幹プロジェクトすべてが、存亡の危機に立たされるようになったからである。まず新型転換炉ATRについては九五年八月、電源開発株式会社による実証炉建設計画が正式に中止された。これにともない動燃の新型転換炉原型炉ふげんも、二〇〇一年に閉鎖された。次に九五年一二月、動燃の高速増殖炉原型炉もんじゅがナトリウム漏洩火災事件を起こし、無期限の停止状態に突入した。その次のステップとして構想されていた高速増殖炉実証炉の建設計画もペンディング状態となった。さらに九七年三月、動燃の東海再処理工場が火災爆発事故を起こした。また科学技術庁から引き継ぐ形で、日本原燃が一九九〇年代から青森県六ケ所村においてウラン濃縮工場と核燃料再処理工場の建設を開始したが、そのペースは緩慢なものとなった。このように四大機関プロジェクトの実用化計画はすべて赤信号または黄色信号がともったのである。
さらにきわめつけは科学技術庁そのものの解体であった。従来の「二元体制」においては、科学技術庁が原子力発電政策全体を統括するとともに研究開発段階の事業を所轄し、他方で通産省が商業段階の事業を所轄してきた。しかし時間の経過につれて、科学技術庁の存在感が低下してきた。その背景には日本の原子力発電事業が着実な拡大を進める一方で、科学技術庁の所管する研究開発事業が全般的に不振を重ねたという事情がある。そして不振を重ねながらも核燃料サイクル事業が商業段階へとステップアップし、電力業界の子会社に相当する日本原燃に移管され、科学技術庁グループから離脱していったという事情がある。
さらに二〇〇〇年頃に大きな転機が訪れた。科学技術庁が解体されたのである。一九九五年一二月の高速増殖炉原型炉もんじゅナトリウム漏洩火災事故や、九七年三月の東海再処理工場火災爆発事故などで国民の信頼を失墜させたことの責任を取らされる形で科学技術庁は解体された。それは橋本行政改革において一九九七年一二月に行政改革会議がまとめた最終報告書に明記された。それにもとづいて一九九八年六月に中央省庁等改革基本法が制定されて、公布と同時に施行されたのである。これによって「二元体制」は完全に崩壊したわけではないが、大きな構造変化を受けた。それが経済産業省に漁夫の利をもたらし、原子力行政全体における実権掌握を可能とした。
二〇〇一年一月の中央省庁再編により誕生した経済産業省は、かつての通商産業省よりも大幅に強い権限を、原子力行政において獲得した。それに対して科学技術庁の後裔である文部科学省の原子力に関する主たる業務は、日本原子力研究開発機構(核燃料サイクル開発機構および日本原子力研究所を統合して二〇〇五年一〇月に発足)における研究開発事業だけとなってしまった。そして原子力委員会と原子力安全委員会は、科学技術庁という実働部隊をもたない内閣直属(内閣府所轄)の審議会となった。そして安全規制行政の業務を一元的に担当する組織として、経済産業省の外局として原子力安全・保安院が二〇〇一年一月に発足した。つまり経済産業省が商業原子力発電の推進と規制の双方を担うこととなった。
こうして二つの省庁の力関係は大きく様変わりした。従来の「二元体制」では両者の権限は拮抗していたが、二〇〇一年以降は経済産業省の力が圧倒的に優位となったのである。これによって作り替えられた原子力体制を「経済産業省を盟主とする国策共同体」と呼ぶことができる。
第Ⅴ期前期の日本において上記のように事故が多発しているが、最も大きな事故は、1999年9月30日に起こった 東海村JCO臨界事故だろう。
これは茨城県那珂郡東海村の株式会社ジェー・シー・オーの核燃料加工施設で発生した。
近隣住民600人が被曝した。決死隊と呼ばれた従業員が現場に向かい、臨界の連鎖反応を止めたが、そのうち二名が亡くなった。
事故被曝によって死亡者が出てしまった日本初の事故である。
第Ⅴ期 後期(二〇〇一年~二〇一〇年)
次に後期(二〇〇一年~二〇一〇年)の動きについても簡単に整理しておこう。この時期における最重要の政策選択課題はもちろん電力自由化問題であった。時代をややさかのぼると一九九〇年代には構造改革を求めるアメリカの圧力や、バブル崩壊後の経済・財政再建をめざす歴代政権の意思などを背景として、自由主義改革の波が押し寄せた。この自由主義改革の気運は、電気事業を所轄する通産省からみてコントロールできない外圧であり、これを拒否するという選択肢はなかった。そのため通産省は、今までの濃密な業界指導・支援政策を流動化させる兆しをみせ、電力自由化政策を推進していく方針を掲げた。
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しかしそれは電力消費の頭打ちに直面していた電力業界に多大な不安を与えた。最大の懸念の一つとなったのが、原子力発電の高い経営リスクであり、その低減のために原子力発電事業のリストラを進めようとする動きが始まった。具体的なリストラ対象となりうる事業は、以下のようなものであった。
(1)商業発電原子炉の新増設の中止または凍結(中略)
(2)核燃料再処理工場の建設中止または凍結(中略)
(3)国策協力で進めてきた諸事業の中止または凍結(中略)
もし電力業界が、これらのリストラ策をすべて実行に移せば、日本の原子力発電事業は、「主要三事業」すべてにおいて見直しがおこなわれることとなり、既設原子力発電所のメンテナンスを中心としたものとなる。寿命を終えた原子炉は火力発電や自然エネルギーによって代替されるか、需要の自然減や省エネにより無用となる。そして数十年後には脱原発が実現することとなる。核燃料再処理は中止され、直接処分を前提とした核廃棄物最終処分への取り組みが進められることとなる。これはまさに脱原発政策を選択したドイツと、実質的に同様の状況である。
もとより電力業界にとって、不安の源泉は電力自由化の推進そのものであった。電力業界の将来にわたる安泰にとっての生命線は、地域独占会社に許されてきた垂直統合体制(発電、送電、売電を一体的に担う体制)を堅持することであった。そのために電力業界がとった戦術が、原子力発電事業を人質にとって、電力自由化政策の手加減を要請することであった。電力業界は原子力発電推進政策と電力自由化政策との整合性を確保せよとのメッセージを、経済産業省へ向けて執拗に発しつづけた。
それが大きな影響力を発揮し、電力自由化に強いブレーキをかけた。エネルギー族議員のイニシアチブによりエネルギー政策基本法が制定され(二〇〇二年)、そのなかで市場原理の活用に箍が嵌められたのである。かくして電力業界の主張は全面的に聞き届けられ、「国策民営」の古い秩序がからくも護持されることとなった。原子力共同体は一体性を取り戻した。それが政策文書における表現上の変化としてあらわれたのは、内閣府原子力委員会の新しい原子力政策大綱(二〇〇五年一〇月)においてである。
その一年後には経済産業省総合資源エネルギー調査会電気事業分科会原子力部会の原子力立国計画(二〇〇六年八月)が策定された。そこには原子力開発利用を従来にも増して政府主導で協力に推進する方針が満載されていた。しかし原子力開発利用は二〇〇〇年代後半において、一段と混迷を深めることとなった。二〇〇七年の新潟県中越沖地震による東京電力柏崎刈羽原子力発電所の被害は甚大であり、原子力発電の設備利用率低迷をエスカレートさせた。また核燃料サイクル関連事業でも、高速増殖炉原型炉もんじゅ、六ケ所再処理工場、六ケ所ウラン濃縮工場などでトラブルが頻発し、これらの施設はほとんど停止状態を続けることとなったのである。
そうした実績面での低迷にかかわらず日本政府は原子力発電を、経済性に優れ、エネルギー安全保障に貢献し、地球温暖化対策に役立つクリーンなエネルギーとして称揚してきた。二〇〇九年に誕生した民主党政権のもとで、そうした自民党政権時代の原子力政策はすくなからず変化すると思われたが、実際には自民党に勝るとも劣らぬ原子力推進政策が展開された。とくに社会民主党が連立政権から離脱した二〇一〇年五月以降は、原発推進論に対する政権内の異論は目立たなくなった。そして二〇一〇年六月に閣議決定した「新成長戦略」において、フルパッケージ型インフラ輸出戦略の目玉として原子力発電が位置づけられた。そうした強気の原発推進論と、原子力発電・核燃料サイクルの実績低迷とのコントラストは、著しいものがあった。
上記によれば、2011年3月11日の福島第一原発事故以前に、すでに原子力関連の事故は頻発しており、「安全神話」はただの思い込みに過ぎないことがわかる。
第Ⅵ期 原子力開発利用斜陽化の時代(二〇一一~)
しかし二〇一一年三月一一日の福島原発事故により、従来政策は大きな見直しを迫られている。筆者がそれを第Ⅵ期の始まりと考えるゆえんである。少なくとも十数基の発電用原子炉が廃止される見込みであり、日本全国の原発総基数・総設備容量は大幅減となる。また福島原発事故を契機に原子力開発利用を偏重してきた従来の原子力・エネルギー政策が転換される可能性は高く、そうなれば原子力発電は急速に衰退に向かうであろう。とくに核燃料サイクル事業は、真っ先にリストラの俎上に載せられ、事業継続がきわめて困難となるはずである。
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以上で、日本の原子力開発利用の時代区分とその概要について紹介した。
今回引用した「新版 原子力の社会史」では、後の章で時代区分ごとにさらに詳細に書かれている。
もっと深く知りたいという方は、ぜひこれを読んで日本の原発について今一度考えてみるのはいかがだろうか。
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