縄文時代のくらしとはどのようなものだっただろうか。本記事では東北大学名誉教授で植物学の鈴木三男(2020)「びっくり!!縄文植物誌」をもとに高度な縄文人の植物利用を紹介したい。縄文人は植物を良く知ったうえで、用途に応じて植物の種類を使い分けていたことが最近の研究によってわかってきている。
では、早速紹介していこう。
縄文人はどのような植物利用をしていたのか
縄文人の高度な植物利用について3点、紹介したい。
クリやどんぐりを食べていた
日本列島のあらゆる縄文遺跡からクリやどんぐりが大量に出土している。秋の味覚クリの利用はいつから始まっていたのだろうか。日本最古級として縄文時代草創期とされている長野県のお宮の森裏遺跡でクリは発見されている。炭化したクリの子葉を放射性炭素年代測定にかけたところ、結果は約13,000年前だった。この頃のクリは天然林のクリか、すでに栽培が始まっていたかは研究者のあいだでも議論が分かれている。どんぐりについては参考にした書籍から引用する。
どんぐりはいつから食べられていたのでしょうか。
鈴木三男『びっくり‼縄文植物誌』同成社 (2020/12/10)
九州南部の縄文時代草創期の遺跡からどんぐりが出土していることが知られています。鹿児島県志布志市にある東黒土田遺跡の「縄文時代最古の貯蔵穴」からクヌギ Quercus acutissima とコナラ Quercus serrata の炭化子葉(どんぐりの食べられる部分)がびっしりと出土し、その放射性炭素年代の較正年代は13,400年前頃とのことです。また、宮崎県都城市の王子山遺跡の土坑からはミズナラ Quercus crispula もしくはコナラと、アベマキ Quercus variabilis の2種類の炭化子葉が出土しています。その放射性炭素年代の較正年代は13,350~13,300cal BP前後とのことで、東黒土田遺跡のどんぐりとほとんど同じ時期です。どうも九州南部では、というより日本列島ではこれらが「最古のどんぐり」のようで、いずれも「土坑」から「炭化」して出土していることから食糧として集められたものと考えてまちがいないでしょう。どんぐりの最古の食糧としての記録というわけです。しかし、ミズナラ、コナラ、クヌギ、アベマキのいずれも渋があって、そのままではとても食べられたものではないことはすでに紹介しました。当時の縄文人はこの程度の渋は別に苦にもならなかったという、うがった見方もあるかもしれません。しかし、多くの考古学研究者は縄文時代草創期にはすでにあく抜きの技法ができていたと考えているようです。
縄文人はどんぐりの渋をとり食糧としていた。そしてクリを好み縄文時代早期以降ではクリの育成管理を行い純林を維持していたことがわかってきている。そのほか植物だけでなく獣、魚なども食べていたことがわかっており、縄文人の食卓は豊かだっただろう。今の私たちと同じように秋の味覚としてクリを楽しみにしていたのかもしれない。
植物で編みかごを作っていた
縄文人の知恵と技をさらに紹介したい。先日世界遺産にも登録された青森県青森市三内丸山遺跡の出土品である小型の編みかごである。通称「縄文ポシェット」と呼ばれている。縄文ポシェットはヒノキ科の樹皮を編んで作られていた。下記画像は三内丸山遺跡センター所蔵の縄文ポシェットである。傍らにあるのはクルミの殻である。ポシェットの外側にある状態で出土した。
いつ頃から、このような編みかごを縄文人は使っていたのだろうか。参考にした書籍では編みかごのことを「編組製品」と定義づけている。説明は下記のとおり。
私たちは素材を組んだり、編んだりして作られたものを全部ひっくるめて「編組製品」と呼んでいます。かごなどは底の部分を組み始め、立ち上がったところからヨコ材を編み込んでいくというように、一つのモノを作るのに編む、組むという両方の技法が使われることが多いので、一括して「編組製品」としています。この言葉は適当ではないという専門家の方もおられますが、とても便利な言葉なので私たちは使っています。
編組製品の存在を示した遺跡はいくつかあったが、実際にその存在が確認されたのは滋賀県の粟津湖底遺跡の縄文時代早期前半(9,200~9,600yBP)の編物の断片であった。しかしこれは植物種の同定はできていない。その後、2003年に佐賀県佐賀市東名遺跡の地下に約8000年前の貝塚が発見された。そこで大型かごが375個体、小型かごが60個体、そして縄なども含め500個体近い編組製品が出土したのだ。通常植物体は有機質であるため分解され残ることはないが、低湿地であり水でパッキングされていたことで現代まで残存し、我々の目に触れることとなった。
東名でたくさん出土した大型かごは、だいたい下ぶくれのなす型をしていて、高さが1m近くあります。本体を形作っているタテ材とヨコ材、口縁部、胴の中央から少し上のところの見た目で明らかに別の素材が入った部分(これを私たちは帯部と呼んでいます)、口縁近くでつり下げ紐のように素材が飛び出している部分(これを耳部と呼んでます)など、じつに複雑です。それで、一つのかごからそれぞれ違った部分の素材をサンプリングして、切片を作成し、顕微鏡を覗いて植物種を同定しました。
鈴木三男『びっくり‼縄文植物誌』同成社 (2020/12/10)
その結果はじつに驚くべきものでした。まさに「おどろき、びっくり」です。
このつづきは、ぜひ書籍を手にとって読んでほしい。縄文人の植物に対する知恵と技に驚かれるだろう。
縄文の ”縄”は何からできているのか
縄文時代の「縄文」は縄で土器に文様をつけていることから名づけられていることは周知のことだろう。しかし、縄文時代の縄とは何でできていたかご存知だろうか。
縄文時代に早期、前期でもっとも出土例が多いのはすでに紹介しましたようにシダ植物の葉柄の縄でしたが、その多くは「三つ組みの縄」で、2本撚り、3本撚りの縄もありましたが三つ組みに比べてはるかに少ないものでした。皮層と維管束が硬いシダの葉柄では、しなやかさが低いので自由な成形はむずかしかったようです。丈夫さがちゃんとあって、しなやかさも十分に発揮できるのは植物体から取りだした繊維で作るのが一番です。カラムシなどのイラクサ科、アサなどはそのような使い方が可能ですが、後に紹介する糸や細い紐に限られるようで、太い縄をつくるほど多量の素材を用意するのがむずかしかったのかもしれません。そういうことで、鳥浜貝塚のヤマブドウの「縄塊」や荒屋敷遺跡の組紐と「縄付き編み物」などのように、縄文人はシダの葉柄では間に合わない太さの縄やしなやかさを持った縄を作るために、じつにさまざまな素材を「開発」したようです。
鈴木三男『びっくり‼縄文植物誌』同成社 (2020/12/10)
以上のように用途や使いやすさに応じて、様々な素材を多用な植物から採取し利用していたことがうかがえる。現代にいたるまで同じ素材を利用しているものもあり、とても興味深い。
縄文時代の植物利用がなぜわかるのか
本記事で参考にしている書籍は植物学者の鈴木三男先生が書かれている。鈴木三男先生は遺跡から出土した植物性遺物を薄くスライスし、プレパラートにして顕微鏡をのぞき、それが何という植物のどの部分(茎、樹皮など)かを同定する。素材の断面を顕微鏡で見て、維管束の並び方などから植物を同定する。それにより多くの植物の多様な部位が縄文人によって利用されていたことが明らかになっている。
実は鈴木三男先生には何度かお会いしたことがあるが、白くて長いお鬚をたくわえた仙人のような方である。先生が実際に執筆されているwebサイトもあるので紹介する。下の画像をクリックするとリンク先へいける。
まとめ
縄文人は植物を良く知ったうえで、用途に応じて植物の種類や部位を使い分けていた。
- 縄文人はどんぐりのあく抜きをして食べていた。
- 縄文人は植物の種類や部位を選んでかごをつくっていた。
- 縄文人は縄に適した植物を選び抜いていた。
スーパーで購入する野菜や、家具になっている木材などを除き、植物を利用する手段を知る機会が減少している。鈴木先生の研究成果を読んでいるうちに、縄文人に植物利用を教えられたように感じる。今後は、縄文人の植物利用と似ているといわれるアイヌの植物利用も紹介したい。
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