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【第41代】持統天皇 -飛鳥時代を代表する女帝-

第41代 持統天皇といえば、有名な女性天皇であり、譲位した二例目の天皇である。
さらに譲位後に太政天皇(上皇)になられた初の天皇である。

※はじめての譲位は第35代 皇極天皇(後に重祚して第37代 斉明天皇)がされている。
 皇極天皇/斉明天皇については以下の記事をご参照ください。

また日本書紀によれば、落ち着きのある広い度量の持ち主であったとされる。
今回は、持統天皇の生まれてから崩御されるまでの実績や人物像を、時代背景とともに掘り下げていきたいと思う。

目次

大海人皇子(天武天皇)との結婚、筑紫国で出産

645年 持統天皇が誕生する。名前は鸕野讚良(うののさらら or うののささら)

父は中大兄皇子(後の第38代 天智天皇)、母は遠智娘(おちのいらつめ:蘇我倉山田石川麻呂の娘)である。

持統天皇 関係図


中大兄皇子については以下の記事をご参照ください。


657年 13歳という若さで、叔父の大海人皇子(後の第40代 天武天皇)の妃となる

660年には百済が唐と新羅に滅ぼされ、百済再興のため斉明天皇は出兵を決めていた。※当時は親百済の外交政策であった。
斉明天皇一行は、白村江の戦に備え、九州(筑紫国)に移動し、朝倉橘広庭宮を建てている。
そんな中、661年、は大海人皇子に随行する形で持統天皇は九州への移動についていくこととなった。
さらに翌年の662年、なんと移動先である九州で草壁皇子を産んだのだった。このとき持統天皇は17歳である。
当時はまだ若く、政治に参加することはなかったが、大海人皇子の正妻として行動を共にした。

667年、時代は天智天皇6年、天智天皇の近江遷都に従って近江大津宮に移った。
このとき夫の大海人皇子は皇太弟であり、天智天皇の後継者として最有力候補であった。
しかし、天智天皇の息子である大友皇子が太政大臣となり天智天皇の寵愛を受けるようになって状況が変わった。
天智天皇が弟ではなく息子に皇位継承したいという考えに気付いたのか、大海人皇子は皇位継承を固辞し、吉野へ出家する。
持統天皇も大海人皇子とともに吉野へついていくこととなった。

大海人皇子は、出家して皇位継承を固辞したが、実のところ、皇位を虎視眈々と狙っていた。
天智天皇が崩御するタイミングを狙って、大友皇子に反乱を起こしたのである。
これがいわゆる672年の壬申の乱であった。
壬申の乱の際には持統天皇も計画に参加したとされる。しかしながら伊勢国桑名に自身は留まっていたようだ。


第40代 天武天皇が即位、皇后となる

673年 壬申の乱に勝利した大海人皇子が第40代 天武天皇として即位される。
天武天皇が即位され、持統天皇は皇后になられた。
この際に、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に戻っている。

天武天皇の政治は、天智天皇と違って、天皇専制といわれた。
大臣を置かず、天皇自身が政治に関して絶対の決定権を持っていた。
そんな中、皇后の持統天皇だけが天武天皇に意見を言える存在だったようである。
おそらく、家臣たちの意見を聞く役割を果たしていたのではないだろうか。

吉野の盟約、天武天皇の崩御

679年 天武天皇は、持統天皇と6人の皇子を吉野に集めた。
皇位継承争いを起こさないため誓った。これがいわゆる吉野の盟約である。
しかし、この吉野の盟約で名前を読み上げた順番が、その後の朝廷における立場順であったことが後の火種となったのは、この時は知る由もない。

6人の皇子と、呼ばれた順番は以下の通りである。
 1. 草壁皇子(天武次男で持統天皇の息子
 2. 大津皇子(天武三男)
 3. 高市皇子(天武長男)
 4. 川島皇子(天智次男)
 5. 忍壁皇子(天武四男)
 6. 志貴皇子(天智七男)

681年には草壁皇子が皇太子となった。
一方で683年に大津皇子も政治に参加するようになった。

685年頃から天武天皇は病気がちになり、持統天皇が天皇代理を務めるようになる。
686年 持統天皇と草壁皇子の親子政治体制が確立したところで、天武天皇が崩御された。

大津皇子の謀叛疑惑、第41代 持統天皇の即位

686年から四年間は称制(即位せずに天皇の代わりに政治を執り行うこと)を敷いた。
実際に持統天皇が即位したのは690年のことである。

686年に天武天皇が崩御されてまもなく、大津皇子の謀叛疑惑が出た。
大津皇子は即座に拘束され、自害させられている。
この事件について、持統天皇の関与が疑われている。(現在の有力な説)
というのも、大津皇子は風貌もよく、それでいて文武両道であり、周囲からの評価が高かった。
この大津皇子が草壁皇子を脅かすのではないかと持統天皇が恐れ、謀叛の疑いをかけたのではないかといわれているが、真相は定かではない。
吉野の盟約での誓いもむなしく、天武天皇が崩御してすぐに争いは起こってしまったのであった。

大津皇子が亡くなり、草壁皇子の即位は既定路線に乗ったと思われた矢先のことであった。
689年、草壁皇子が亡くなってしまった。持統天皇は深く悲しんだであろう。しかしすぐに切り替えて方策を練った。
持統天皇は、草壁皇子の息子である軽皇子(後の第42代 文武天皇)を天皇に即位させようと考えた。
しかしこの時、軽皇子は7歳であり即位には若過ぎることもあり、持統天皇自身がつなぎとして即位することを決めた。
翌年の690年に持統天皇は第41代として即位されたのであった。

代表的な持統天皇の実績

持統天皇の政策は、基本的に天武天皇の継承である。
天武天皇時代から検討が続けられてきたことを達成することがメインであった。

690年に庚寅年藉(こういんねんじゃく)を作成した。
これは戸籍のはじまりとされ、戸内の家族の名前・年齢・戸主との続柄を明記するものである。
家族構成を把握することで班田収授を実施し、課税台帳の役割も果たしたとされる。
これ以降、6年に一回更新することで運用した。

694年 藤原京への遷都を行った。
実際に藤原京がすべて完成したのは、10年後のことであった。
これまでの都と異なり、天皇一代限りの宮ではなく、都としてその後三代にわたり(持統天皇、文武天皇、元明天皇)16年も使用された。
天皇とその家臣だけの住まいとしての機能だけでなく、人民が周囲に暮らす都として造られた。
また、律令国家の建設を強く意識し、中国様式を取り入れた都であった。

譲位と太政天皇に就任、崩御されるまで

高市皇子を太政大臣に任命していたが、696年に亡くなってしまう。
このことから、697年に軽皇子を太政大臣とした。

次期皇太子を誰にするかを議論していた際に、葛野王(大友皇子の子)の意見で、兄弟間は争いを生むため、親子間の皇位継承が良いとの結論に至った。
これは大津皇子の謀叛疑惑による問題を強く意識したものであった。
以上により、軽皇子が皇太子となった。

同697年 持統天皇が軽皇子(当時25歳)に譲位され、自身は初の太政天皇(上皇)
天皇の後見人としての役割を果たした。

702年 持統天皇は崩御された。
天武天皇と同じ、檜隈大内陵に合葬された。
最期も天武天皇と一緒にいることを希望されたのであった。

持統天皇の文化的側面:和歌 

持統天皇は万葉歌人として、万葉集 巻1雑歌28に藤原宮御宇天皇代(高天原廣野姫天皇 元年丁亥11年譲位軽太子尊号曰太上天皇)天皇御製歌として掲載されている。

万葉集に載っている持統天皇の和歌
 「春過て 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ天の香久山」
この歌は百人一首にも採用された。


現代語訳すると・・・
 いつの間にか、春が過ぎて夏がやってきたようですね。
 夏になると真っ白な衣を干すと言いますから、あの天の香久山に

今回は持統天皇について調べたことを書いてみたが、いかがだっただろうか。
持統天皇は13歳で結婚し、41歳で天武天皇に引き継いで国政を執り、52歳で譲位、58歳で崩御されている。
そして、自らの血を継ぐ子孫を天皇に即位させることに奔走されていたのがよく分かった。

また、調べ切れていないが、持統天皇の背後には藤原不比等がいたとされる。
持統天皇、文武天皇を後ろから支えつつ、後の藤原家反映の礎を築いたともいわれるが、このあたりも今後調べてみたいところである。

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