はじめに
2023年、現与党の批判的政党として日本保守党という政党が設立された。
保守とは何か?
答えられるだろうか。その答えを得るために、自虐史観をうえつけられた戦後よりさらに遡り、明治時代の保守思想を改めて知りたい。
『明治神社誌料 上・中・下・索引』(明治神社誌料編纂所明治45年刊)は明治42年ごろを「基礎」として編纂した「府県社580余社、郷社3450有余社に関する誌料を蒐集したるもの」。府のあとに県が続き、府県ごとに「県社」「郷社」の社名、所在地、祭神などを見ることができる。ただし、一覧はできない。この明治神社誌料の序文を第8代および第17代内閣総理大臣を務めた大隈重信が執筆している。
本記事では大隈重信の文章から明治時代の保守思想を探ってみたい。
大隈重信の文章
明治神社誌料編纂所 編
出版者_明治神社誌料編纂所
出版年月日_明治45+
明治神社誌料序
+神を敬ふの念慮は、上、皇室から 承けて、下、日本国民が大昔から篤く養ひ 来つたもので、實に我國の善良なる風俗の 本を成すものである。然るに御一新このかた、外国からして、新しい学問や新しい宗教が盛んに入り込み、一時は世人が上も下も全く西洋風にカブレたり、また其の反動で保守的になったり、人間の思想が風に、煽られるやうに、フワフワしていた間に多くの善美なる習慣や思想が失はれた共に敬神の念も、一般に薄らいで来たやうである。而し 近頃になって一般国民に敬神の念を盛んにせねばならぬと唱ふるもの多くなったが、此の敬神思想の萠す根本は何であるかが明かになっていないと甚だ忌むべき淫祠迷信の風を盛んならしむるの害がある。若しも漫りに固陋なる神道者流の説に流れるならば、憲法にて信教の自由を保障さるることと衝突するの虞がある。氏神や大社に参詣して、賽銭を上げて柏手を打つこと許りが、 必ずしも敬神でなく、之は神を祭るの一形式に過ぎぬ。又 加持祈祷で疾病を拂ひ利幅を願ふのは、迷信であつて、敬神の道に背いている。敬神とは、一つの宗教上の信仰でなく、 佛教徒でも、耶蘇教徒でも、日本人たる以上は之を守るべく、又、守り得べき道である。
祖先の恩を思うて、之れを祭る美しい人情が、即ち日本人に厚き敬神の思想の根底をなすのである。故に皇室に於て皇祖皇宗を御祭りになる風が民間に及んで、天照皇大神は皇室の御先祖であると共に、また日本民族の祖先として尊ぶところであるから、先づ此の神をお祭りする。また皇室に忠義を盡し國家に大功のあつた名臣を始め、一鄉一村の開發に身命を捧げた偉人などは国民の祖先の中、最も尊敬すべきものであるから、之れを 祭る。また氏族 の遠祖の大人物を祭るのである。而し て此等の神々は、その或は建設し、或は進歩させた国家郷土の行末を、いつまでも自から守護するものであると、我々は信ずるものである、されば日本の神とは、昔此の世に在った偉人の靈魂 をいふのであつて、敬神とは即ち祖先崇拝で、また英雄崇拝である。敬神とは、即ち死んだ後の世での幸福を願ふといふ、人の願望を本として、智慧のある人の唱へ出した宗教とは全く性質が異っている。「かみ」とは、基教などでいふゴットとて、天地万物を支配する絶封無限の理想物を指すものとは違ふ。「かみ」とは即ち人の上に立つ者のことで、これに支那の神の字を當篏たのである。支那人の鬼神といふのも、人の想像力で考へ浮べた、目に見えぬ恐ろしい威力を有する者を謂ふので、日本の「かみ」とは全く異つている。天神地祇などいふのも、支那文字を借りて、形容的に用いる言葉で、皇祖皇宗といふのと同じ意味である。「かみ」とは理想的存在物でなく、元は人間であられた。農業の爲に大功のあつた人が、農業の神と崇められ、菅公の如き忠臣にして文學に長けた人が、文學の神となり、無實の罪を救ふ神となられたのである。
皇室の御敬神は如何にと云ふに、まつり(祭)とまつりごと (政事)とが、國語を同じくするによりても知られるとほり、政治が善く、國富み、民安らけくあれば、天子様は即ち、斯國を創められた皇祖皇宗に對して孝心をお盡しなさることになる。善政は即ち祖宗の神を祭るの道である。されば皇室では時を定めて皇祖皇宗の神霊をお祭りになつて、政治の御成績と、國土の状況とを御報告になるのみならず、毎年正月の御政治始の儀式には、先づ神宮の事 を奏すとて、去年中伊勢太廟の御祭が滞りなく行はれた次第を聞こし召されるのが、昔からの仕来りである。斯様に皇室で、太古から御先祖を祭られる敬神の美風が、やがて民間一般の風習となったのである。四方の夷が次第に王化に霑ふやうになつて、朝庭の家来が部下の民を率いて、處々の新開地に移住して開墾に従事するやうになると、即ち其の土地に皇祖皇宗を祭ると共に、各の家の遠祖の偉人を祀る爲の神社を建てて、之れを某氏族の鎮守としたのが、即ち氏神である。人民は皇室の例に習って、日を定めて氏神を祭り、大にしては國家、小にしては一郷に大切なる事柄の起ったときには、之を神々に奉告して神霊が、この國土人民を守護して下さることを感謝するのである。子供が誕生すれば、今は氏神とならせたまへる御先祖の遠孫がまた一人殖えましたと披露する。旅行に出る時は、先づ氏神に參る等は我國古來 の美風である。
日本人の敬神の念は斯様に極めて單純なるものである、天子、父母に對して盡す忠孝の念を推し廣めて、皇室の御先祖、人民の先祖、國家の偉人の霊魂に對して謝恩の意を表して、幾久しく其高徳を仰ぐといふに外ならぬのであ る。されば敬神の念は忠孝の念に含まれている。教育勅語には、敬神の事を教へられてないが「克ク忠ニ克ク孝ニ」とある聖論の真意を能く能く味つて服膺すれば、祖先の霊に對する敬神の念は自然と人の心に盛んに湧き出づる ものである。偶像を拝する勿れと教へられてある基督を奉ずる国民でも、国家に功労のあった偉人英雄の墓前に敬禮を致し、また記念像を立てて、祖先崇拝を實行している。日本人の謂はゆる敬神を行っているのである。基督教で、神を天父と崇めるのも、そこに祖先崇拝の形が存しているのである。 然るに神社を建てて、これを祭るのは、銅像石像を建てて、偉人を記念するの情を一層深くして、崇拝の目的物を備へることに外ならぬのであるが、日本はこの祖先崇拝の點に就ても、大に諸外國と趣を異にすべき理由があるのである。我國は祖宗このかた三千年の間に、上に萬世一系の皇室を戴くところの、同一の民族が同一の国語を話しつつ、この美しき大八洲の國に、類ひなき国家を成して、嘗て他民族の爲に侵されず、一度も革命を経たり、他から統治せられたりした事がないから、革命亡國等の歴史を持つて居る國又は新に興った國家の人民とは異って大に深厚篤實なるべき所以である。吾々の有する如き熱誠なる祖先崇拝即ち敬神の念は、この国體にして、始て有り得べきものある。語を換へて云へば、此の祖先崇拝は、又我國に特有なる家族制の根抵を成すものである。爰に此等祖先、偉人を祀りたる府縣郷社に關し明治神社誌料が著述されて、予は大に之に満足をするものである。予は本書を以て、単に神社の事に携はる人々に推奨するものでなく、苟も国民資性涵養の責に當る教育家若くは宗教家、為政家に對して、特に之が精讀を要求する。又、更に進んで余は本書が我邦一般家庭に備付られ敬神の念を厚からしめんことを望むものである。
明治四十四年十一月天長節
伯爵 大隈重信
国立国会図書館デジタルアーカイブ
おわりに
この序文において大隈重信は”敬神”を強調している。敬神とは日本の伝統的な価値観であり、宗教的信仰を超えるものと説いている。具体的には祖先の恩を思ってこれを祭ることであるが、このことが、天照皇大神をお祭りすることにつながると大隈重信は捉えている。
つまり、天照皇大神は皇室の御先祖であって且つ日本民族の祖先であるため、この恩を思ってお祭りするということである。まさにこの捉え方が天皇家への敬いにつながっていると感じた。
さらに大隈重信は、日本は諸外国と異なると唱えている。
なぜ違いがあるのかと問われれば、それは、万世一系の御皇室があり、同一民族が同一言語を話し、一度も革命がなかったためである。この一貫した日本文化の継続性こそ、”敬神”が今日まで日本国民の中に根付いている「保守」なのかもしれない。
コメント