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日本の古代を知る鍵は風土記だった!?

日本の古代を知るため、近代が創り出した「記紀」という言葉によってまるで二つの記録だけを鍵として扱っているかもしれない。しかし、記紀の普及には明治政府の思惑があったことを知る必要がある。

明治六(一八七三)年四月に行われた鎌倉行幸において、保土个谷・戸塚の人々は、「天子様ノ御通リガアレバトテ以前ノ大名抔ノ御通リト違ヒ御人数モ至テ少ナク且一文ニモナラス路ノ掃除ヲシロノ何ンノト面倒ナル事ノミナレハ天子様ノ御通行ハ甚タ迷惑ナリ」という態度であり、鎌倉に天皇が着いた折、これを拝しようと出てきた住民の数も予想より少なかったということが、太政大臣三条実美の密偵の報告書に述べられている。

 天皇が身近に存在する京都・近畿圏周辺と東国・奥州とでは、その認知度は自ずから相違があったであろうが、多くの一般民衆にとって天皇は未だ認知されざる支配者であったことを、これらの資料は示している。

 よって、明治維新後の新政府が、天皇の国土統治の由来とその正当性を汎く普及させようと躍起になったのは理の当然といえよう。

 そのひとつの方策として、天皇が最高神アマテラス大御神の子孫であり、カムヤマトイハレビコが橿原で即位し初代天皇神武となる由来を語る、八世紀初頭に成立した『古事記』(和銅五[七一二]年成立)、『日本書紀』(養老四[七二〇]年成立)などの神話や物語を知らしめることが行われていったわけである。

変貌する古事記・日本書紀-いかに読まれ、語られたのか

しかし、記紀以外に日本の古代を記録した書物があることを知っているだろうか。
それが風土記と呼ばれる書物である。

目次

風土記とは?

7世紀末(645年以降)から8世紀初頭(西暦701年~数年くらい)にかけて律令編纂事業が行われていたが、それに伴い720年5月に日本に現存する最古の正史である日本書紀が完成している。日本書紀が語る時代範囲は神代(神話時代)から持統天皇の統治が終わる西暦697年までである。

すこし時代はくだるが、その後平安時代になり「続日本紀(しょくにほんぎ)」が編纂される。続日本紀は日本書紀につづく第二の正史である。続日本紀で語られる時代は西暦697年の文武天皇時代から桓武天皇の791年までである。

現在、風土記として知られている書物は、続日本紀の記録によると西暦713年に発した命令によると考えられている。風土記という名はのちの時代の呼び名であり、この命令に応じ各国が提出した公文書は「解(げ)」と題されていたと考えられている。現存する常陸国風土記の冒頭には「常陸国司解 申古老相伝旧聞事」という標題がつけられている。

五月甲子(制すらく)畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けよ。その郡の内に生れる、銀・銅・彩色・草・木・禽(とり)・獣・魚・虫等の物は、つぶさに色目をしるし、土地の沃塉(よくせき:意味は地味が肥えていることと瘠せていること。地味のよしあし。)、山川原野の名号の所由、また古老の相伝ふる旧聞異事は、史籍に載(しる)して、言上せよ。

続日本紀

現存する風土記は、一部欠損があるもののほぼ全容のわかる5つの国、後世の文献に引用されて残るものが約30か国分程度である。

ほぼ全容のわかる現存している風土記
・常陸国
・出雲国
・播磨国
・豊後国
・肥前国

今回は文字数の都合上、出雲風土記をとりあげる。
今後も順番にとりあげていきたい。

出雲風土記で知る日本海側文化圏

出雲国風土記は奥付が残っており、733年に発行されたことがわかっている。
そのほか出雲国風土記について概要をすこし紹介する。
どんな背景がありそうか想像してほしい。

風土記などを通じてみる出雲ことばは、特殊な語を別として、一般的現象としては方言的な特殊性をもたなかったようで、極めて大和地方のことばに近かったと考えられる。

加藤義成「出雲国風土記勘造当時の出雲ことば」

老、細思枝葉、裁定詞源。亦、山野浜浦之処、鳥獣之棲、魚貝海菜之類、良繁多、悉不陳。然不止、粗挙梗概、以成記趣

現代語訳:「山・野・浜・海岸の所在、鳥・獣の棲息の場、魚・貝・海藻など水産物の種目などは、まことに多くて、あり過ぎるから、ことどとくは述べなかった。そうではあるが、止むを得ない事柄だけは「ほぼ」あらましを挙げておいて「記趣」を成した」

という冒頭の文章です。これは当風土記の執筆の態度を宣言した、文字通りの序文にある文章です。

 風土記は解文ですから、国司が大和朝廷に対してお答え申しあげる性格の公文書であり、国の過去と現在についての忠実な報告記事に終始するもの・・・(略)です。すなわち、私的著述の序文ならばともかく、解文の冒頭部に、どんな気持ちで筆を執ったかなどと書く必要がないと思われるからです。

「粗挙梗概」などということは「微妙な道理がわかって」いない者の欠点を指摘する表現なのです。風土記でこの句を使ったのは、自分の表現についての強い謙辞であり、したがって「書物の体裁を形づくった」のではなく「体裁が形づくれなかった」といわないと首尾が一貫しません。

 仮にどういう意味であるにしても、詔で指定されていることを「止むを得ない事柄」と解文でわざわざ書くのはおかしいことではないでしょうか。この執筆者は、他の風土記の執筆者とはだいぶ違うぞと思わせます。

古典への招待 【第5回:『風土記』を書いた「彼」

出雲のなかの権力争い

出雲国風土記を読む時代背景として古代の国造(くにのみやつこ)という制度を知る必要がある。
国造制は大和政権が地方支配体制として、その土地の有料豪族による支配をバックアップする制度である。
国造に任命された豪族は大和政権に貢物や労働力を提供し、その代わり地域の裁判権、徴税権、行政権、祭祀権などを行使した。

出雲国造は出雲臣(いずものおみ)と呼ばれる豪族がそれを担っていた。

出雲臣の祖神はアメノホヒと伝えられている。
アメノホヒは古事記にも日本書紀にもその名は出ており、天つ神の子孫(アマテラス直系)と記されている。
したがってヤマトと関係を持つ前の祖神は誰だったのか妄想たくましくしてほしい。

国造の居館は、国府のあった意宇郡(おうぐん)に置かれていた。そして出雲臣は、出雲国風土記の巻末に「国造にして意宇郡の大領を帯びたる外正六位上勲十二等、出雲臣広嶋」と書名されているとおり、意宇郡の最高責任者である。意宇郡は、宍道湖の東部から東南部に広がる平地であり、古い勢力が存したことは考古学的な遺物によっても確認できる。

それとともに、出雲国には宍道湖の西部一帯に大きな勢力が存したことも確認されている。出雲大社の鎮座する出雲郡と、神門郡あたりが出雲西部勢力の中心であった。それら出雲国の東と西の主要郡の大領を、出雲風土記によって確認すると次のようになる。

・意宇郡・・・大領「出雲臣」
・出雲郡・・・大領「日置臣」
・神門郡・・・大領「神門臣」

巨大な四隅突出型墳丘墓が集まる西谷墳墓群、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡における膨大な量の銅鉾(どうほこ)・銅剣や銅鐸(どうたく)の出土によってわかるように出雲西部地域に大きな勢力があったこと確認できる。

三浦佑之2016「風土記の世界」 岩波新書

国宰・国司(クニノミコトモチ)は七世紀半ばから地方に派遣されるが、はじめは一度 きりの使者であった。七世紀後半には継続的に派遣され常駐するようになる。国司は、は じめ評家や地方豪族の豪族居館に寄住したり、その都度の「仮屋」などに滞在したのではないかと思われる。

天武天皇時代に、令制国の境界画定が進められた。大宝令では、国司 は四年の任期付きながら恒常的に常置され、国司の官僚機構が整えられて、八世紀前期に は国内統治の拠点として国府が営まれる(山中敏史説)。国府は律令国家の地方支配の象 徴的施設でもあり、その遺跡は全国的に8世紀前半から10世紀代に機能した。最近は、 七世紀末には「初期国府」が営まれたとする説(大橋泰夫氏)もある。

出雲国府が所在する出雲国意宇郡は、熊野神社・杵築大社の「神郡」(郡内の租・調・ 庸を特定の神社のものとする制度)であった。出雲国造の出雲臣氏は、国造であるととも に八世紀には意宇郡の郡司を占め続け、また神郡なので一族から複数の郡司を輩出することができた。

出雲国造は、他地域の国造・郡司とは別に、朝廷の太政官で特別に任命され、神祇官で 負幸物(おいさちもの)を賜る。また潔斎の後上京して天皇に「神賀詞」(かんよごと) を奏上し神宝を献上する儀式を通して天皇と直結する関係を持ったから、特別な権威を保 ったとみられる。

国司に対し命ぜられた風土記の編纂も、『出雲国風土記』は出雲国造が 行っている。

奈良時代天平期の国内の郡司たちには国造と同じ出雲臣が八名もおり、出雲 臣が大きな勢力を保ったことが知られて、出雲の特徴ともいえる。

佐藤信 平成25年度松江市史講座 出雲国府の実像

他国との関係

さて出雲風土記の有名な神話を探ってみよう。
下記のサイトにはわかりやすい神話解説が掲載されている。

国引き神話をご存じない方は、まず下記サイトで国引き神話を読んだのち、次に進んでください

国引き神話

出雲観光ガイド 国引き神話

国引き神話があくまで意宇を基点として語られているか感じられただろうか。

さて引っ張られた国のなかに「北陸地方の高志(こし)の国」がある。
日本書紀では「越」や「越国」と表記されている。

「出雲国風土記」神門郡条には、

古志郷すなわち郡家に属けり。伊弉奈彌命の時、日淵川を以ちて池を築造りき。その時、古志国人等、到来たりて堤を為りき。即ち、宿り居し所なり。故、古志といふ。

狭結驛(さゆふのうまや)郡家と同処。古志国の佐與布(さよふ)といふ人来居みき。故、最邑(さいふ)といふ。神亀三年、字を狭結と改む。其の来居みし所以は、説くこと古志郷の如し。

として、「古志国」の人である佐與布(さよふ)とその一族の人たちであろうか、古志郷にやってきて日淵川を堤を築いてせき止め、池を造って住み着いた具体的な伝承を載せている。それぞれの伝承は関連している。現在の出雲市古志町を中心とする地域であった。これらの伝承はイザナミノミコトという記紀の国生み神話時代のこととしているので、相当古い時代から出雲地方と「古志国」との間に交流のあったことを主張している。

内田律雄 2015「出雲国風土記にみる古志との交流」

出雲国、特に神門郡は九州から山陰地方、そして北陸までの範囲で交流があったことをうかがい知ることができる。
それゆえにヤマト政権にとっては重要な存在だったのではないだろうか。

いずれ詳しく触れたいと思っているが、北九州と山陰地方の結びつきを感じさせる遺跡があるので少しだけ紹介する。

岩戸山古墳の石人石馬

まとめ

出雲国風土記だけでなく他の風土記にも興味がわいた方は、ぜひご自分でもいろいろしらべてみてください。

古代のことは文献が少ないため、刺激的な解釈をどうしてもしたくなるが、そこはぐっとこらえていろいろと資料をあたってみるようおすすめする。

大切な視点として、どこに所属しているどんな学派の方が述べていることなのか。
そのあたりも気にしてみると面白い。

時の権力者にとって都合の悪い文字情報は残すだろうか。
しかし、隠された真実を後世に伝えたいと思ったとき、
あなたならどうするか?

そんな視点で考古学や歴史学を眺めてみるとおもしろい。

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