天皇・皇族と神仏分離 -宮中の神道化、仏教との別れ-

明治維新により、江戸幕府が終わりを迎えたが、これにともなって様々な改革がおこなわれてきた。
その一つが、神仏判然令であり、結果的に廃仏毀釈が日本各地で発生した。

しかしながら、長きにわたり神道と仏教は入交り、神仏習合(神仏混淆ともいう)の形態をとってきた。
神仏習合の歴史や、生き残った神仏習合の一例は以下の記事で触れているのでぜひご一読いただきたい。

さて、神仏判然令を出したのは、日本国そのものであるが
その主役はまさしく、当時の明治天皇であることは間違いないだろう。
しかしこれまでの天皇は、仏教に対して信仰心が深い方が多かったのも事実である。

今回の記事では、上記のような背景がある中で
宮中においては、どのように神仏判然令を実践されたのか。これをみていきたいとおもう。

目次

天皇の仏壇:御黒戸

平安時代以降、天皇や皇族の霊は宮中で、御黒戸(おくろど)に祀られていた。
御黒戸とは、我々のような一般の人にとっての仏壇のようなものである。
この御黒戸は神仏判然令により、宮中から撤去されてしまう。

撤去されてしまった御黒戸は、廃仏毀釈の運動で壊されてしまったかというと、そうではなかった。
結果的には泉涌寺(天皇家の菩提寺のような存在にあたるお寺)に遷されたのであった。

神仏分離後には、宮中にあった御黒戸は撤去され、恭明宮(現在、京都国立博物館が建つところにあった)に遷座し、さらには泉涌寺舎利殿に遷されて安置されることになった。その後、御黒戸を移築した泉涌寺の海会堂に、歴代天皇、皇族方の御念持仏三十数体が祀られることとなる。

畑中章宏 廃仏毀釈–寺院・仏像破壊の真実(ちくま新書)

また天皇・皇族の葬儀に関しては、泉涌寺にて仏式の葬儀が行われてきた
一八六七年の孝明天皇三年祭以後は、神式に改められることとなった。

天皇家の菩提寺:泉涌寺

泉涌寺は、京都府京都市東山区泉涌寺山内町に現存する、由緒正しきお寺である。
【公式】皇室御香華院 御寺 泉涌寺 – 京都東山 御寺 泉涌寺の公式WEBサイトです (mitera.org)

応安7年(1374)1月、後光厳院を泉涌寺で御火葬されてから、その後、九代にわたり天皇の御火葬所となった。
後水尾天皇から孝明天皇まで、この間の江戸時代の全ての天皇、皇妃の御陵は泉涌寺に造営されている。

この泉涌寺においても神仏分離の影響を受けてしまったようである。

このように泉涌寺は中世以来歴代天皇御陵の地であり、御火葬、葬送のところであって皇室の尊崇最もあつく、寺格もまた他寺院と異なりその首座に列せられている。ところが明治維新の廃仏毀釈とともに従来の墓域を上地させ、宮内省の管理に移し、諸書寮(現書寮部)の所掌するところとなり、境内地のみが寺院に残された。そして明治九年尊牌、尊偽奉護料として永続年金千二百円を下賜されることになったが寺門の経営は頗る苦しく、寺宝流出などのこともあって、明治十二年責任役僧五人より恩賜の倍増と境内上地の山林を寄付されるよう、京都府知事を通じて願い出があった。御下賜金は明治十二年九月から千八百円に、また明治四十五年五月には四千二百円と順次増額され、山林の下枝の採取が承認されたのであった。そして特に経費のかさむ伽藍の補修、維持については企画、所要経費ともすべて宮内省の責任とされた。一、二の例をあげれば昭和九年一月には霊明殿の屋根葺替工事につき壱万二千七百七拾円の巨費を投じ、翌十年二月には鉄筋コンクリートの経蔵、ならびに礼拝堂の建設工事について、壱万円という当時としては莫大な費用を負担している。終戦までは概ねこのような方法によって寺の経営に参画してきたのであるが、昭和二十二年五月三日新憲法が制定されるや、国家機関としての宮内省が直接神社仏閣に資を供することを禁止されることと なったため、当寺のように壇信徒を持たない皇室一すじの寺門の維持は極めて困難な事態に追い込まれるようになった。

泉涌寺と皇室 – 【公式】皇室御香華院 御寺 泉涌寺 (mitera.org)

上記のように、泉涌寺は経済的に困難な状況に追いやられてしまった。
厳しい状況には変わりはないが、皇室からの支援が全く無くなってしまったわけではなかった。
皇室からの私的な支援や宮内庁の支援など、ある程度は継続されたのであった。

明治天皇は11回にも及び泉涌寺に行幸され、廃仏毀釈からは守られた。
また1882年に火災に見舞われた際には、大宮御所(宮内庁)から修理費用など資金提供を受けている。
当然のことながら戦後の新憲法以降は、政教分離の原則から、宮内庁からの資金提供等はなくなった。

ただ、わずかに天皇ご内廷の私費の下賜が唯一のよりどころであった。この時、宗教法人解脱会(当時解脱報恩感謝会)は、故会長岡野聖憲師の意志を体して、霊明殿尊儀への奉仕と御寺の維持興隆に協力することとなり、これは現在もなお継続されている。しかし、時代の変動につれて、御下賜金と解脱会の奉納金だけで御寺を維持することは、とうてい出来なくなってきた。ここにおいて寺門運営の基礎を強固にし、永続を図るために昭和四十一年三笠宮崇仁親王を総裁に仰ぎ、三井銀行故佐藤喜一郎氏を会長として広く民間篤志のもの糾合して「御寺泉涌寺を護る会」が結成され、現在ではその意志を秋篠宮文仁親王殿下を総裁に、経団連名誉会長の奥田碩(ひろし)氏を会長に、経団連常任顧問の和田龍幸(りゅうこう)氏を副会長兼会長代行とし、開創以来七百五十年の伝統と由緒をもつ、格式の高い御寺 維持のための努力が今も力強く続けられている。

泉涌寺と皇室 – 【公式】皇室御香華院 御寺 泉涌寺 (mitera.org)

宮中における仏式の祭儀

神仏分離の影響から、宮中における祭儀についても仏式のものを無くす方針が決められた。

幕末までは、仏教や陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀がおこなわれていたが
そうした年中行事も神仏分離の影響で変化することを余儀なくされた。

年始の金光明会、後七日御修法、正月八日の大元帥法、一八日の観音供、二月と八月の季御読経、三月と七月の仁王会、四月八日の灌仏会、五月の最勝講、七月の盂蘭盆供、一二月の仏名会など、皇室の仏事は明治四年をもってすべて廃止される。その一方で、以前は神嘗祭、新嘗祭、歳旦祭、祈年祭、賢所御神楽のほか四方拝、節折、大祓が定められていたが、それに加え天長節、紀元節、春秋の皇霊祭など新たな祭祀が生まれた。やがて宮中三殿が成立すると、神道に純化した皇室祭祀が整備され、確立されていったのである。

畑中章宏 廃仏毀釈–寺院・仏像破壊の真実(ちくま新書)

神仏判然令により、民間においては廃仏毀釈が起こるなど、仏教側に相当の影響があったことは間違いない。
この影響は宮中においてもそうであったが、廃仏毀釈等の激しい破壊行為は無かった。

泉涌寺の例を調べてみてわかったが、明治天皇はご自身は心根ではお寺を大事に想う部分があったのではないだろうか。

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