我々はどこから来たのか -「日本人源流」を読んで-

NHKでファミリーヒストリーという人気番組がある。
出演者の祖父母ら先祖の人生を取材し紹介する、自分が生まれるに至るまでのルーツの物語だ。

日本史が日本人に人気な理由は、ルーツを辿る物語だからかもしれない。

歴史を知ることで、いま自分がここで生きている理由と世界を理解したいからなのかもしれない。

日本人起源論は人骨の形態や考古遺物、または文字記録をとおして多くの議論がなされてきている。
最近ではDNAを研究する学問により解明されつつある。
今日はDNAの情報にもとづく研究によって解き明かされてきた内容を、ある本の引用から紹介したい。

紹介する本は、こちら。
本記事の引用部分は、すべて下記書籍からの引用である。

わたしたちの生命は46本の染色体からなる受精卵から始まる。

これらの染色体はヒトゲノムとよばれている。

このヒトゲノムは、アルファベット4文字(A,C,G,T)で32憶個を用いて表現される。

膨大なDNAの情報である。
これらのDNAの情報が、2004年にほぼ解明された。

人間の起源も驚くほど詳しく調べることが可能になったのである。

ーはじめに

本書はつぎのような構成になっている。

1章 「ヒトの起源」では、ヒトとチンパンジーの共通祖先が生きていた700万年前からアフリカで新人が誕生するまでを、駆け足で解説している。

2章 「出アフリカ」は、7~8万年前と考えられている新人のアフリカからユーラシアへの拡散を論じる。
特に、日本列島とも地理的に遠くない東南アジアでの人類の進化をくわしく説明した。

3章 「最初のヤポネシア人」は、縄文人の核ゲノム塩基配列を決定して解析したわれわれの研究成果の紹介が中心である。

4章 「ヤポネシア人の二重構造」では、これまでの日本人の起源研究をふりかえりつつ、アイヌ人とオキナワ人の核ゲノムの膨大な多様性データが、基本的には「二重構造モデル」を支持することをしめした。

5章 「ヤマト人のうちなる二重構造」は、現代日本列島の大多数を占めるヤマト人のなかにも二重構造があることを、別の核ゲノムデータから浮かび上がらせ、あたらしい三段階渡来説を提唱した。

6章 「多様な手法による源流さがし」では、これまで人類進化研究の中心だったY染色体やミトコンドリアDNA解析の最新情報を中心に紹介した。最後に、いくつかの基礎知識について巻末解説をもうけた。

今回は考古学とも縁の深い3章と4章を紹介する。

興味を持った方はぜひ実際に読まれることをお勧めする。

本書でたびたび出てくる「ヤポネシア」という言葉について少し説明したい。

「日本」という名称は、ご存じの方も多いと思うが7世紀ころに当時の政権によりつくられたものである。

「倭」という呼び名も中国側からの呼び名であり、先史時代までさかのぼるとこれも適切な表現ではない。

そこで本書の著者は特に古い時代の日本列島に住んでいた人々を表現するため、島々を示す「ネシア」と日本をラテン語でヤポニアと呼ぶことをかけあわせ「ヤポネシア人」という言葉を採用している。

目次

最初のヤポネシア人

ヤポネシアに住みつづけてきた人間とその文化は、大きく分けると3種類になる。

それにしたがってヤポネシアを北部、中央部、南部とわける。
これらヤポネシアには、大昔から現在まで、本書の主人公である3種類の人々(ヤマト人、オキナワ人、アイヌ人)が住んでいる。

旧石器時代と縄文時代には、ヤポネシアの北部、中央部、南部それぞれで、独自の変化があった。

ただし、これら3地域に交流があったこともたしかである。
海はヤポネシア人にとってそれほど障害ではなかったようだ。

たとえば沖縄県北谷町伊平遺跡から縄文時代晩期に東北で使われていた大洞系の縄文式土器が発見されている。

縄文時代前期に九州から沖縄にかけて分布した曽畑式土器は、朝鮮半島南部の櫛目文土器と類似しており、研究者によっては、なんらかの交流があったと考える。

ヤポネシア人成立の定説

人骨の形態を研究した山口敏や埴原和郎が1980年代に定式化したものが「二重構造モデル」である。

ヤポネシア(日本列島)に旧石器時代に移住して最初に住み着いた人々は、東南アジアに住んでいた古いタイプの人々の子孫であり、彼らがその後縄文人を形成した。

弥生時代になるころ、北東アジアに居住していた人々の1系統がヤポネシア(日本列島)に渡来してきた。
彼らは、もとは縄文人の祖先集団と近縁な集団だったが、寒い環境への遺伝的な適応変化により、骨形態が縄文人とは異なっていた。

この新しいタイプの人々は、ヤポネシアに水田稲作農業を導入し、北部九州に始まって中央部全域に移住を重ね、そのあいだに先住民である縄文人の子孫と混血をくり返した。
これが現在日本列島に居住する多数派であり、本書では「ヤマト人」とよぶ。

ところが、ヤポネシア北部と南部にいた縄文人の子孫集団は、この渡来人との混血を経ず、やがてそれぞれアイヌ人とオキナワ人の祖先となっていった。

これらを「土着縄文系」と「渡来系弥生人」のふたつに考えて説明したことから、この説は「二重構造モデル」とよばれている。

古代DNA研究

現代に生きる私たちは、祖先から伝えられたDNAを持っているので、現代人のDNAを調べても過去の人々についてある程度推測することはできる。

しかし、過去に生きていた人々のDNAを調べることができれば、直接的な証拠になる。

このようなDNAを「古代DNA」とよぶ。

古代DNAであれば、死後長い時間が経つあいだに、一部のシトシン(C)のアミノ基が脱落して、ウラシル(U)という別の塩基にかわり、それをPCR法で増幅すると、ウラシルと相補となるアデニン(A)が結合するので、結局それと相補的に結合するサイミン(T)に変化することが知られている。

ヤポネシア人の二重構造

集団の系統樹からみた東アジアにおけるヤポネシア人

東アジアの9人類集団の遺伝的近縁関係を推定したところ、アイヌ人とオキナワ人の共通性をしめした。アイヌ人とオキナワ人から構成される集団につながるのは、ヤマト人である。ヤマト人はアイヌ人・オキナワ人のグループが示す縄文人要素と、大陸系の人々の要素との混血である。

ヤマト人はアイヌ人・オキナワ人のグループと結合してヤポネシア人のグループを構成する。
ヤポネシア人グループにもっとも近縁なのは、地理的にも近接した韓国人であり、朝鮮半島と日本列島の4人類集団もまた、統計的に100%の確率でひとつのグループとなる。

これら4集団の外側には東アジアの5集団(北部少数民族・南部少数民族・上海漢民族・台湾漢民族・北京漢民族)がある。
漢民族は地域によって大きな遺伝的違いがある。
たとえば上海と北京の漢民族の遺伝的違いは、ヤマト人と韓国人の遺伝的違いのおよそ3倍程度となっている。

また東アジアの北方と南方の少数民族では、朝鮮半島と日本列島に地理的に近い北方少数民族(ホジェン・ダウール・オロチョン・モンゴル)のほうが、南方の少数民族(トゥー・ナシ・イ)よりも、ヤマト人に遺伝的に近い関係となっている。

シカゴ大学の研究チームのさらに大規模な解析によると、アイヌ人のDNAと共通性をある程度持っていたのは、ヤマト人とオキナワ人以外ではウルチ人だけだった。

ウルチ人はアムール川河口に住んでおり、おそらく樺太島を通じてアイヌ人と遺伝的交流があったのだろう。

縄文要素と弥生要素の混血によるヤマト人とオキナワ人の誕生

計算の結果、ヤマト人については、今から55~58世代前に混血が開始され、現在のヤマト人には14~20%の割合で縄文人のゲノムが伝わっていると推定された。

ここで1世代とは、両親が子供をうんだときの平均年齢である。
世代数も1世代の年数もすこし幅をもたせると、混血が始まったとされる時代は、最も新しくて1375年前、もっとも古くて1740年前となる。

用いたDNAサンプルが得られた年代がばらついているので、便宜上「現在」を2000年とすると、これら混血が始まった年代は西暦3~7世紀となり、日本列島中央部では、古墳時代から飛鳥時代にあたる。

この時期は、ヤマト政権が東日本から東北地方に勢力拡大をしていた時期である。
日本書紀のこの時代のものとされる叙述には、ひんぱんに蝦夷が登場する。
西暦660年前後には、180隻の大軍勢で蝦夷を討ったり、蝦夷が200人朝廷に参上したり、という記述がある。

現在の東北地方には、ナイやベツという、アイヌ語でどちらも「川」を意味する言葉でおわる地名が多数存在する。青森県青森市の三内、岩手県花巻市の谷内、秋田県大館市の比内、岩手県馬淵川、秋田県秋田市の仁別などがあげられる。これらはかつてこの地域にアイヌ語を話す人々が住んでいたことをしめす。

これらの証拠を総合すると、弥生時代以降の渡来人が中心となったヤマト王権の勢力範囲が西日本から東日本に拡大するにしたがって、かつて東北地方に住んでいた、縄文人のDNAを伝えてきた人々はすこしずつ北にしりぞき、大部分が北海道に落ち着いたのではないかと考えられる。


古代DNAの研究ははじまったばかり。
これからの研究成果がとても楽しみである。

ひきつづき、追いかけたいテーマである。

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