列島人類史

考古学では4万年~1万6000年前を日本の旧石器時代、1万6000年~3000年前を縄文時代、3000年前~紀元200年ごろを弥生時代と呼んでいる。旧石器時代に東南アジアに住んでいた人々の子孫が移住してきてこの列島に住みつき縄文人を形成(土着縄文系)、弥生時代には北東アジアに住んでいた人々の一系統が渡来、水田稲作農業を導入し北部九州から列島中央部に移住、縄文人の子孫との混血を重ね、現在の日本列島に居住する多数派(ヤマト人)を形成した(渡来弥生人系)。これが人骨の形態の研究から山口敏や埴原和郎が1980年代に提唱した「二重構造モデル」である。

 しかし、福島県三貫地(さんがんじ)貝塚から出土した百数十体の人骨のゲノムDNAを解析すると、縄文人は東ユーラシアの北方集団(モンゴル人、北方中国人など)や南方集団(ベトナム人、南方中国人など)ともかけ離れた集団であることがわかった。縄文時代の人々がどこから来たのかは、いまだに謎なのである。

 第一段階は4万年~4400年前で、ユーラシア各地から狩猟採集民が渡来した。東ユーラシアに現在住んでいる人々とはDNAの異なる人々である(縄文人)。第二段階は4400年~3000年前で、朝鮮半島、遼東半島、山東半島に囲まれた海岸部から来た「海の民」とする(第三の集団)。第三段階前半は3000年~1700年前で、朝鮮半島経由で渡来した稲作農耕民(弥生人)、後半は1700年前~現在(古墳時代以降)で、朝鮮半島を中心にユーラシア各地から渡来した民である。著者は古墳時代以降も大陸からの渡来は現在まで途切れることなく続いているとみる。

 縄文人のあと弥生人の来る前に第三の集団の渡来があったとする仮説だが、この集団は漁労を主とする「海の民」なのか、考古学の藤尾慎一郎の説く「園耕民」(農耕も行う狩猟採集民)なのか、検証はこれからの課題のようである。

 本書の最終章では、Y染色体、ミトコンドリアDNA、ABO式血液型遺伝子のほか、言語、地名からの源流探しも紹介されている。天津神や国津神、記紀神話の解釈にも踏み込み、日本語の起源にも触れた『日本列島人の歴史』(岩波ジュニア新書)をあわせ読むと、著者の豊かな想像力がわかる。

 この本を読んで、コンピュータを駆使して膨大な情報を処理するにあたっても、何を取り上げ、何を調べ、何と比較するか、得られた結果(情報)をどう判断するか等々、結局は当事者の推論を重ねる構想力と判断力が必要なのだと思った。

[書評]『核DNA解析でたどる 日本人の源流』
斎藤成也 著

旧石器時代

いつから日本列島にヒトが暮らしていたのか。
日本列島にある旧石器時代の遺跡(主に3万年から1万年前の遺跡)は、2010年の集計で1万か所を超えている。

国内最古の人骨は、沖縄県の 石垣島白保竿根田原洞穴遺跡 で2018年に発見された約2万7千年前のものである。

日本列島では、遺跡がほとんどあるいは全くないところに、4万年前よりわずかに新しい時期に、急激に遺跡が増える現象がありまして、これがサピエンスの渡来のサインだとみなせます。だから、サピエンスが世界拡散していく中で、その渡来の時期がきちんとわかるポイントになるんです。それはとても重要なこと

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130604/352966/?ST=m_labo&P=2

日本列島の旧石器時代の・・・人骨とともに当時の人々が使っていた道具が発見された(港川人骨)

http://www.gangala.com/excavation-topics/

縄文時代

縄文時代という1つの時代が1万年以上も続いていたと言われているが、実に多様な文化の栄枯盛衰があり、また複数の民族や文化が共存していたのではないだろうか。

北か南か、西か東かという、つまり地域差ということになると、例えば関東地方から中部・高知、東北もそうかも知れません、そういったところでは縄文時代の前期〜中期ぐらいにかけて、かなり大きな集落ができます。

だけども一方で、西日本でそのころのムラっていうのは、ほとんど見つからないくらいなんですよ。むしろ、あっても住居が1〜2棟で、そんなに大きいムラはないんですね。

https://www.bayfm.co.jp/flint/f20190518.html

弥生時代

弥生時代は稲作、鉄などの技術が伝わり拡がった時代。

山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期から中期の墓地遺跡と約200体の人骨。鳥取県鳥取市にある青谷上寺地遺跡は弥生時代後期の約100人分の人骨がみつかっている。どちらの遺跡からも鉄製品を含む多くの副葬品が出土している。

鉄が作れることにより、石斧から金属の道具が発達し、杉を切り出し硬くて丈夫な板材を生産し、土木工事や大規模な圃場整備が可能になったのではないだろうか。

日本列島においての人々と鉄との出会いは、弥生時代中期ごろと考えられています。弥生時代中期後半には、鉄素材を輸入に頼りながらも、国内で原始的な鉄器の生産が開始されました。

https://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/tatara-history/part-1/

日本の古代における「踏鞴製鉄」はこの直接製鉄法で、江南人(倭人)の渡来により弥生時代の始まりとなる。弥生時代の初期から水田稲作が行われ、青銅器と鉄器が同時に製作された。

https://enkieden.exblog.jp/27529025/

古墳時代

弥生時代に稲作が発達し、定住する人が増えたことによりムラをまとめるクニへと発展する。また、奈良県の箸墓古墳に始まり大きな古墳が各地に作られた。5世紀になると全国各地に古墳がみられるようになる。

日本のそれぞれの地域の農作業や土木工事などの指導者や、特別な技術を持った人が豪族になりました。

http://www.chikatsu-asuka.jp/?s=child

6世紀の後半になると、古墳は大きなものばかりでなく、直径10m程度の小さな古墳が、山の麓や谷間に集まって、造られるようになります(群集墳)。日本の古墳の8、9割を占めるこれらの群集墳は、有力者のあかしである古墳築造が、より身分の低い人にも許されたということとともに、ヤマト政権の力が、そうした階層にまで、及ぶようになったことを示します。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/hpnagaoyama2011/student3.htm

飛鳥時代

奈良県明日香地方に由来をもつため飛鳥時代と名付けられているが、前期難波宮のように大阪へ遷都していた時期もある。飛鳥時代を代表する人物に聖徳太子がいる。

明日香にある高松塚古墳は694年から710年のあいだに作られており、同じくキトラ古墳( 描かれた天文図には中国式の星座が配置されている )も同様の時期と考えられている。そのためこの頃の近畿地方は、後の時代に伝わっているよりも権威は一極集中ではなく複雑だったのではないかと、想像をかきたてられる。

飛鳥時代の前の古墳時代は、王権をめぐっての争いが激しく、豪族の間でも利益の対立が深刻で争いが絶えませんでした。とくに飛鳥時代に入る直前に伝来した仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の二大豪族間による争いは激しいものでしたが、蘇我氏の勝利をもって豪族対立の時代はようやく終りを告げました。

そして聖徳太子の登場で秩序ある国家への道が開かれ、天皇中心の律令国家が築かれていくことになります。聖徳太子は飛鳥時代の始まりとなった推古天皇の摂政として政治の全てをゆだねられていましたが、その政策は仏教を基調とするとともに、冠位を定め、憲法を制定し、皇室の権威を高めるなど、天皇中心の統一国家を樹立することにありました。

https://asukamura.jp/kids/asuka_rekishi.html

難波遷都は645年、中大兄皇子によるクーデター(乙巳=いっし=の変)後。時の孝徳天皇が、蘇我氏の影響力の強い飛鳥を避けたとされる。天皇中心の中央集権体制を目指す大化の改新が進んでいた652年、海に臨む「難波長柄豊碕宮(前期難波宮)」が完成する。だが2年後、孝徳帝の死去を受けて都は飛鳥へ戻る。宮殿は副都として利用されたが686年、火災で焼失した。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37262320U1A211C1000000/?page=2

古墳時代~飛鳥時代、4世紀から7世紀、日本列島には朝鮮半島や中国大陸との交流を通して、現在、渡来文化と呼ばれている、多くの技術や文化がもたらされた。多くの出土品はそのことを語っている。人々は様々な形でそれらの技術や文化をそれ以前にもまして取り入れ、日本古代律令国家成立への歩みを加速させた。

その当時、倭国と呼ばれた日本列島の国は、中国の史書「宋書」や「隋書」などに国際交流の跡を残す。日本列島内でも、鉄刀・鉄剣に刻まれた文字や様々な出土品から、国がまとまっていく様子がわかる。

やがて、仏教思想や律令制度を取り入れ、文書政治による統治国家としての基礎を固める。

http://www.chikatsu-asuka.jp/?s=exhibition/zone1

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