日本人の文化や信仰は自然や祖先への信仰と深く結びついているといわれる。しかし、実際は、どうなのだろうか。本記事では、日本国の起源である奈良時代前後を中心に、祭祀や信仰に関する考古資料や文献史料をもとに、古代日本人が神をどうとらえていたのか(以下、神観)に迫りたい。
神観の歴史をひもとくために必要なこと
本記事で触れる時代幅は広いため、下記のとおり表に整理した。下記の表では古墳時代以降は日本史の時代区分ではなく、世紀単位で分類し表記した。古墳時代で始まり、下にいくほど、時代が新しくなる。
時代 | 日本列島の出来事 | 中国大陸・朝鮮半島の出来事 |
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古墳時代前期 3世紀中ごろ~4世紀 | 今の奈良県(大和)に前方後円墳が出現し、全国に広まる。 百済王の世子、倭国に七支刀を贈る。(369年) | 中国は晋が三国統一、陳寿が三国志を書く。 朝鮮半島で伽耶、新羅、百済、高句麗が誕生。 |
古墳時代中期 5世紀(401年~500年) | 今の大阪府(河内・和泉)で、巨大な前方後円墳がつくられる。 倭には五王(武王など)がいて、全国統一を進めていた。 宋の倭国伝に記載あり。 | 中国は南北朝時代。 |
古墳時代後期 6世紀(501年~600年) | 横穴式石室が広まる。 前方後円墳が小さくなる。 武烈天皇に子がなく、北陸から継体天皇が迎えられる。 百済の聖明王が仏像・経典を伝える。 飛鳥寺の造営が始まる。(588年) | 中国は隋が統一。 朝鮮半島で新羅が伽耶を滅ぼす。 |
7世紀(601年~700年) | 中大兄皇子、中臣鎌足らと共に蘇我入鹿を討つ(乙巳の変)(645年)。 大化の改新(645年)。 白村江の戦いで、唐・新羅連合軍の前に、大和軍が大敗(663年)。 伊勢神宮の式年遷宮を初めて実施(690年)。 藤原京へ遷都(694年)。 | 中国は唐が統一。 朝鮮半島は新羅が統一。 |
8世紀(701年~800年) | 大宝律令が完成する(701年)。 平城京に遷都する(710年)。 平安京へ遷都する(794年)。 | |
9世紀(801年~900年) | 最澄が天台宗(805年)、空海が真言宗(806年)をおこす。 最後の遣唐使が派遣される(838年)。 | |
10世紀(901年~1000年) | 藤原忠平らが、延喜式を選進する(927年)。 平将門が常陸、下野、上野の国府を襲い、新皇を称す。 藤原氏全盛期。 | 中国は唐が滅び、五代十国時代へ。 |
本記事の参考書籍は下記のとおり。
重要な視点をこの本では下のように述べている。
物資料の考古資料のみで人間の精神活動である信仰を復元するのは難しい。
笹生衛. 神と死者の考古学 歴史文化ライブラリー (p.33). 株式会社吉川弘文館. Kindle 版.
同様に、神の考え方「神観」や祭祀の内容を、祭祀遺跡の情報のみで復元するには限界がある。
そのためには、やはり人間が記した文字の情報、文献史料の助けを借りなければならない。
かといって、個別の考古資料を、直接、文献史料の内容と結び付けるのは正しい方法ではない。
考古資料と文献史料を結びつけるには、一定の手続きが必要となる。
年代が確実な考古資料と、同時代の文献史料とを比較し、そこで一致し整合する点を確認することこそが重要と考える。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(p.34).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
つまり、神観の歴史をひもとくために必要なことは、考古学と歴史学の両方を丁寧に調べることである。
早速みてみよう。
古墳時代の祭祀
古墳時代の祭祀とは、どのようなものだったのだろうか。
四世紀後半から五世紀中頃、日本列島には朝鮮半島から多くの鉄素材が流入すると同時に、鍛冶技術、紡織技術、須恵器の焼成技術といった新たな技術がもたらされた。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(p.68).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
この時期、日本列島は大きな技術革新の時代を迎えていた。
当時、新しい技術により生産された品々は、古墳から出土する遺物として、我々の眼前にあらわれているのだ。しかし、古墳とはお墓である。葬送儀礼だけでなく、ほかにはどのような祭祀をおこなっていたのだろうか・・・
祭祀には大きく分けて3つある。
- 水辺と祭祀
- 交通路と祭祀
- 集落と祭祀
詳細をみてみよう。
水辺と祭祀
ひとつめに水辺でおこなわれていた祭祀がある。
最も多いのが、河川や池沼といった水辺に立地するものである。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(p.93).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
清い水が湧き出る泉、豊富な水が流れでる山麓で、水を意識して祭りを行っていたことは間違いないだろう。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(p.94).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
このような祭祀は、六世紀後半から七世紀前半まで受け継がれた。
大規模な人工溝に面して高床建物が建ち土製模造品を使い祭祀を行った千葉県館山市の東田遺跡、石で護岸した溝辺で祭祀を行った島根県松江市の前田遺跡は、その良い例である。
交通路と祭祀
ふたつめに交通の要所や難所での祭祀がある。
大和から東海地方を経て海路で東北地方へ向う場合、通らなければならない海の難所が房総半島沖である。その房総半島先端には、南関東で最も古い祭祀遺跡の一つ小滝涼源寺遺跡(千葉県南房総市)が立地する。ここでは、伊勢・名古屋周辺で作られた「S字状口縁の甕」とともに鉄剣や鉄鋌を捧げた祭祀の跡が確認された。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(pp.96-97).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
大和から九州へむかうのに最も重要な交通路は、やはり瀬戸内海航路だろう。そこには、香川県直島町の荒神島遺跡、岡山県岡山市の高島岩盤山山頂遺跡、愛媛県魚島村の魚島大木遺跡のように祭祀遺跡が点在する。この延長線上、大和から北九州を経由して最短距離で朝鮮半島に通じる海路上には、宗像沖ノ島の祭祀遺跡が存在する。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(p.97).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
交通路にかかわる祭祀遺跡は海路だけでなく、峠などの陸路の難所でも発見されている。
交通に利便性を与える自然の働きと同時に、難所として障害を与える働きに神を感じていた。『播磨国風土記』『肥前国風土記』は、往来の人々に危害を加える神々を筆録するが、これら神々はその典型例だ。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(pp.112-113).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
集落と祭祀
最後は集落と祭祀である。
遺跡の様子をみてみよう。
人々が生活した集落と稲作の場である水田の境界に、須恵器大甕を中心に土器類を円形に並べた祭祀遺構があり、そこからは、鉄製の刀剣、鏃、鋤先、鎌、刀子などの鉄製品が出土した。須恵器の大甕には酒を入れ土器には食べ物を盛り、豊富な鉄製品などを捧げ神祭りが行われたのだろう。中心となる年代は、六世紀後半から七世紀前半である。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(p.99).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
竪穴住居、平地住居などが建ちならぶ屋敷内、路傍の木の根元といった場所で土器や石製模造品が出土し、大小の祭祀の痕跡が発見された。中でも最も規模の大きな祭祀遺構は、多量の土器を並べた形の土器集積で、居住の場である屋敷と、畝を立てた畑との境界に位置していた。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(p.99).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
人々の暮らす集落と水田や畑の境界部分で祭祀が行われていた。土器の形式から、何世代にもわたり同じ場所で祭祀が行われていたことがわかった遺構もあるようだ。
3つの観点から祭祀をみてきたが、やはり古代日本人にとって神とは自然の恵みと災いに大きく影響を及ぼす存在だったことがわかる。まとめとして、下記の文章を参照したい。
起伏にとんだ複雑な地形がひろがり、四季の変化が明瞭な日本列島の自然は、豊かな恵みを与える反面、風水害、地震、火山噴火など多くの災害をもたらした。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(p.113).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
恵みと災害の相反する働きをもつ日本列島の自然環境。それが、古代の神観の根底にはあった。我々の祖先が信仰した神々は、恵みを与える一方で、神意にそむけば災い(祟り)をもたらす存在なのだ。この神々を祀ることで、日々の生活の安寧と生業の安定を図る。
ここにこそ、祭祀を行う目的、祭祀の本質があった。自然環境の働き=「神」に、注意深く丁寧に接すること=「祭祀」を怠れば、災いを招き、最悪の場合、死につながる危険性をはらんでいたのである。
古墳時代の祭祀は伝承されたのか?
祭祀遺構から出土する遺物を見ると、7世紀から5世紀までの系譜をたどることができる。しかし、古墳時代の祭祀は7世紀以降、伝承されたのだろうか?
延長五年(九二七)に成立した、律令の施行細則『延喜式』は、巻八に古代の祭祀で読み上げた二十八編の祝詞を収めている。中でも「龍田風神祭」と「広瀬大忌祭」の祝詞は、神へと捧げた品物の内容を書いている。風神祭と大忌祭は『日本書紀』天武天皇四年(六七五)四月条で初めて確認でき、風雨の災害がなく順調に稲作が進捗することと豊作を祈る。『神祇令』に定める、律令国家が行う重要な祭祀(国家祭祀)である。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(p.64).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
風神の祭は奈良県三郷町の龍田大社、大忌の祭は同県河合町の広瀬神社で、ともに四月と七月に行った。これら祭で神へ奏上した祝詞には「皇神の前に白(もう)したまえ」「皇神の前に白さく」という表現がある。
「~の前に白す」の表現は、藤原宮などから出土する木簡にある古い上申文書の形式であり、これら祝詞は、その祭が史料上で初めて確認できる七世紀後半頃の内容を伝えている可能性が高い。
このほか、参考書籍のなかでは「常陸国風土記」「播磨国風土記」「出雲国風土記」「肥前国風土記」などの文献を参照している。
少なくとも、七世紀後半から九世紀頃までの内容を伝える文献史料の範囲では、神への供献品である幣帛(へいはく・みてぐら)は、武器(刀、弓矢、槍鋒)、武具(楯、靫、甲冑)、農具(鍬、鎌)、工具(斧、刀子)、馬具、紡織具、布帛類、船といった多様な品々で構成されると考えられていた。これらの幣帛の品々は、五世紀から七世紀までの祭祀遺跡で出土する遺物とほぼ共通する。この共通する出土遺物は「幣帛」と同様、神への捧げ物として祭祀の場に用意されたものであったと考えられる。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(p.67).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
上記のとおり、後の世の文献に書かれいてる神への捧げものと古墳時代の祭祀遺物は、ほぼ共通していることがわかった。
さらに伊勢神宮の記録から、神への捧げもの以外の祭祀遺物について考察している。
古墳時代の祭祀遺跡の出土遺物で、捧げ物「幣帛」以外のものは、祭祀の中でいかに使われていたのだろうか。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(pp.70-71).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
これを考える時、手かがりとなるのが、『皇太神宮儀式帳』(以下、『内宮儀式帳』)が伝える古代祭祀の次第「祭式」である。『内宮儀式帳』は、平安時代の初期、延暦二十三年(八〇四)にまとめられた伊勢神宮の記録である。祭神の由来、社殿の規模・配置、祭祀の祭式、神職・奉仕者などについて具体的かつ詳細に記している。特に祭式に関する記載は、古代の伊勢神宮で行われた国家レベルの祭祀の細かな実態を今に伝えてくれる。
祭祀の準備段階で使用する紡織具、臼・杵、竈、琴は、五・六世紀の祭祀遺跡から出土する遺物の組み合わせと一致する。特別に御塩焼物忌(みさきものいみ)が焼き御饌に添えた塩は、やはり、五・六世紀の祭祀遺跡で出土する製塩土器に対応する。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(p.73).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
本記事ではすべてを紹介できないが、このほかにも「神の宮」や「火山祭祀」など興味深い古代日本人の神観について書かれていた。興味を持った方は笹生先生のご著書を実際に読んでみてほしい。
おわりに ー神観のゆくえー
古墳時代の祭祀はおそらくのちの時代にも受け継がれていたと、感じたのではないだろうか。というのも、古墳時代という区分は後の時代に名づけられた時代区分であり、当時生活していた人々が古墳時代とその後をどのように認識していたかは知る由もない。
9世紀から11世紀に気候が不安定だったことが研究によりわかってきている。古墳時代から継続された祭祀が気候変動などの自然環境の変化にともない変化していくさまを、最後に紹介しておわりにしたい。
洪水・旱魃が頻繁に発生する不安定な気候条件は、同時代を生きた人々に深刻な社会不安をもたらしていたと考えられる。伝統的な生産基盤の機能低下や、災害による深刻な社会不安に直面した人々は、その状況に対応する新たな信仰・祭祀を求めたのだろう。これに呼応するように急速に広まるのが、新たな神仏の関係、神(垂迹=仮の姿)と仏(本地=本来の姿)を一体に理解する「本地垂迹説」である。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(pp.210-211).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
古墳時代の祭祀遺跡、静岡県浜松市の天白磐座遺跡でも確認できる。井伊川の支流、神宮寺川の東岸、標高四一㍍の薬師山山頂にある遺跡だ。神宮寺川に面する薬師山の山頂には巨岩群があり、周辺から滑石製勾玉、鉄製の鉾、刀、鏃、手捏土器などが出土した。年代は四世紀頃から六世紀、河川・水と関係する祭祀遺跡である。遺物は、八世紀の土馬、九世紀から十世紀前半頃の須恵器・灰釉陶器と続く。そして、巨岩群の中心から愛知県渥美窯産の経筒外容器(経典を納めた経筒を入れる容器)六個体以上が出土した。年代は十一世紀末期から十三世紀。この時代、古墳時代以来の祭祀の場、しかも中心部に仏教経典を納め経塚を作ったのである。この結果、古代の神は、仏教信仰で意味付けがなされ、富士山のように本地垂迹説を導入した可能性は高い。
笹生衛.神と死者の考古学歴史文化ライブラリー(p.211).株式会社吉川弘文館.Kindle版.
本地垂迹説については下記の記事を参考にしてください。
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